2017年の12月。全国ツアー中にも関わらず、flumpoolは突然活動休止を発表した。山村隆太(ヴォーカル&ギター)の機能性発声障害が原因だった。声が出なくなったり裏返ってしまうため、思ったように唄えない。そんな状態が長年続き、山村も限界に達してしまったのだ。少し休めば回復するだろうという読みは外れ、なかなか本調子に戻らない。一時期は脱退も頭をよぎったという。デビュー10周年というアニバーサリーを迎えた2018年は、何の活動もないまま過ぎたが、しかしその大晦日、ファンクラブのラジオで久々に肉声を届けた山村は堰を切ったように話し出し、バンド結成日の1月13日に地元の大阪でストリートライヴをやりたい、と言った。そして大阪の天王寺公園、実際にライヴを敢行。直前の発表にも関わらず多くのファンが詰めかけ、2曲を披露。全国ツアーも発表となり、復活を果たした。このインタビューは、そのライヴ後で山村に話を聞いたものだ。この1年以上に渡った活動休止が、どれだけシビアなものだったか、痛いほどよくわかるだろう。しかしこの長い時間を乗り越えて、4人は確かなものを共有した。それがバンドの強い絆となり、彼らを新たなステージへと誘うのだ。
(これは『音楽と人』2019年3月号に掲載された記事です)
ようやく復活のニュースが届いて、嬉しいです。
「まあ復活って言っても、まだサプライズライヴで2曲やっただけなので、トレーニングって感じです」
テレビの特集でも見ましたけど、声出すためのトレーニングをしてるんですね。
「あれ、不思議でしょ?(笑)。逆立ちとかしますからね。庄島(義博)さんというトレーナーの方と、僕と同じ病気を克服された(山森)隼人さんという方の3人でやってるんですけど、チーム組んで〈TEAM YAMAMURA〉ってライングループ作ったのが、去年の10月末だったかな」
え、じゃあつい最近ですね。
「そうなんですよ。表向きには、さあ復活準備完了です!みたいな空気になってますけど、こっちは正直ヒヤヒヤでした。ちゃんとできるって確信できたのは、今年に入ってからなんで(笑)」
ではこの長い休止期間を振り返ってみますけど、僕は一昨年の11月30日、市川市文化会館でライヴを観たんですよ。
「憶えてます。めっちゃ調子悪かった日でした」
確かに声は一部出てなかったけど、懸命に身体を振り絞って唄うその姿に、僕はかなりグッときたんですよ。それを支えるメンバーの姿にも。そのことを伝えようと楽屋に顔を出すと、山村くんだけ違う部屋にいて、そこからまったく出てこなくて。
「あ、そうでした?」
他のメンバーと話してたら、20分くらいして急にドアが開いて、今まで見たことない険しい顔であなたが出てきたんですよ。こっちを見て、すぐ笑顔になりましたけど。
「そうかもしれないです。確かにあの日は、何かがガラガラっと崩れたんですよ。僕の中で」
というのは?
「もう3年前くらいから、ずっと調子は良くなかったんです。それまではなんだかんだ言って、声と喉には自信があった。それがベストアルバムのツアー(註:2014年)で風邪をひいて、調子を崩してから、毎回波があるようになって、だんだん思うように唄えなくなってきたんですよね」
じゃあずっと声が思うように出ないって感じてたんだ?
「そうですね。ライヴ前も声出しをしっかりしないと思ったように出ないから、だんだん唄うことが嫌いになってきてたんです。でもその代わりと言っては変ですけど、つねに満足できない自分がいたので、楽曲にはその感情がうまく出せたんですよ」
「夜は眠れるかい?」とか「絶体絶命!!!」のような曲を書いてた時期ですね。
「そう。ソングライターとしての満足感はあったんですけど、ライヴでは万全じゃない自分がいるので、あの頃、めっちゃイライラしてました。昔は出ていた高いキーが出ないから、それに合わせてセットリストも変わっていくし、メンバーがこの曲をやりたいって言っても、それに応えられなかったりする。とはいえキーを下げて唄うことは避けたい。バンドやスタッフみんなにもどかしさがありましたね」
そんな気持ちであのツアーに臨んでたんですね。
「だからあの日、決壊したんですよ。それまでずっと、声が出ないって言うのが怖かったんです。弱みを見せたくなかったし、そんな自分が見下されるのが嫌だった。だから強がって、大丈夫だってメンバーに言い張って、ピリピリしながら毎回ライヴしてたんです。でもあの日、自分の最低点を更新したライヴをやっちゃったなと思って。そしたら、それまで張り詰めてた気持ちが一気に崩れて。〈自分はしょせん、これくらいの存在だな〉と思っちゃって。それまで背伸びしすぎてたんでしょうね」
ツアーはもう終盤でした。
「だからこのまま走りきれると思ってたし、余計な責任感みたいなものを背負ってたんですよ。俺がどうにかするから心配するな、みたいな(苦笑)。でも裏を返せば、頼ることができなかったんですよね。だから楽屋でも、誰も話しかけられない空気をプンプンさせてて」
まあ、気持ちはわかります。
「遠ざけてたんですよ。頼ったり甘えたりすると、折れちゃいそうだったから。でも次のパシフィコ横浜では、1曲目から声が出なくて。前を向いて客席を観るのも辛くて。もう張り詰めてた気持ちが決壊してたから、後ろを向いたりして。そしたらメンバーが『無理しないで、高いところは全部ファルセットで乗り切ろう』って声をかけてくれたり、唄えないところをコーラスしたり、いろいろフォローしてくれるんだけど、もうそれすら聞こえなくなって。あの大きな会場で、俺ひとりしかいないように思えて……もうボロボロだったんですよね。精神的にも不安定で、終わったあと、ぜんぜん眠れなくて。その時に書いたブログで、ぽろっと弱音を吐いちゃったんですよね。ファンにもメンバーにも初めて。そしたらそれが意外と大ごとになってしまって」
そりゃなりますよ。でも、もう限界だったんですね。
「その日その日で、懸命に声を絞り出してましたからね。で、そのブログをメンバーやスタッフが見て、打ち合わせをすることになって。そこでタオル投げてくれたんです。ツアー中止して、しばらく休もう、って。いや、最後まで走り切るからって抵抗しつつも、心のどこかでホッとしてて。自分じゃ止まれなかったんですよね。でもどこかで止めてほしかった。だからすごく安心しました、あの時は」