サポートベーシストとして長年GRAPEVINEを支え続けてきた金戸覚。金戸が初めてGRAPEVINEのライヴに参加したのはアルバム『Circulator』のリリースツアーで(キーボードの高野勲もこのツアーに参加しており、現在のライヴラインナップが初めて揃ったツアーとなった)、そのアルバム『Circulator』のリリースから25周年を記念したツアー〈GRAPEVINE IN A LIFETIME CIRCULATOR tour〉が8月よりスタートします。さらに、金戸の還暦を祝うライヴイベント〈金やん還暦サマーファイトシリーズ〉も8月に開催。そんな節目が重なるタイミングにあわせ、アルバム『あのみちから遠くはなれて』のリリース時に行われた金戸覚のインタビューをここに公開します。金戸覚というひとりのバンドマンの歩み、そして見た夢と憧れ。その軌跡を辿ったロングインタビューです。
GRAPEVINEのステージの上手(かみて)側、そこにはつねに背の高い、手足の長い痩せた男が立っていて、情熱や激情を深く内に秘めたベースを黙々と弾いている。男の名は、金戸覚。下北沢のライヴハウスや呑み屋の顔役でもある彼は、いくつかのバンドを作っては壊し、また作っては壊しを繰り返した後、2003年、オリジナルメンバー・西原誠の病気による脱退を機にGRAPEVINEのサポートを務めるようになった。バンドと一緒に演奏するようになって、ほぼ四半世紀。30代、40代、そして50代……肩書は〈サポートメンバー〉かもしれないが、バンドマンとしての働き盛りをずっとGRAPEVINEと共に過ごしてきた。男が見た夢と憧れはどんなものだったのか? あのみちから遠くはなれた、追憶のバンドストーリー。
(以下は『音楽と人』2025年6月号に掲載された記事です)
「しゃべること、何もないよ」
男には過去がない。
いや、来年には還暦を迎えようとしている年齢だ。積み重ねてきた過去がないはずがない。しかし情報の海であるインターネットを探しても、男に関する情報はわずかしか出てこない。ステージでスポットライトを浴びる仕事に就いていてそれは奇妙なことだし、とりわけ過去に関する情報は皆無である。
振り返ることをよしとしないのか、誇れるほどの過去ではないのか。単なる無精か。本当はどうだったんだろう。
男は1966年に生まれた。高校時代を松山で過ごした。サッカーに夢中だったが、家ではザ・ルースターズやサンハウスなど先鋭的なロックバンドのレコードを聴き、ひとりでギターを弾いていた。卒業後は地元の国立大学に入学。しかしバンドをやっていた友人に憧れを抱き、仮面浪人の末に彼のいる東京の大学に進学した。親は泣いた。
東京ではバンド活動に没頭した。新宿ロフトのステージに立った時は感動で足が震えた。当初は嗜好もパンク系に偏っていたが、スライ&ザ・ファミリー・ストーンなどさまざまな音楽に触れるうち多様化雑食化していった。
しばらくして組んだバンドが〈瘋癲(フーテン)〉だった。よくライヴをしたのは下北沢屋根裏。当時結成間もないミッシェル・ガン・エレファントも同ライヴハウスを根城にしており、共同でイベントを企画することもあった。ちなみにその時の屋根裏の店長が、のちにCLUB Queを興すことになる二位徳裕。男の下北沢との深い付き合いは、この90年代初頭までさかのぼる。
瘋癲はヴォーカルがめんたいロックを信奉していたこともあって、演奏する音楽もビートロックとパンクが中心だった。幅広い音楽に目覚めていた男には、それが物足りなく思えた。
「俺ががちゃがちゃってやって、バラしたような感じだよね」
瘋癲、解散。新しいバンドを求めて手に取った雑誌『Player』のメンバー募集コーナーに目が留まった。ギター&ヴォーカルの男がベースとドラムを探していた。
「すごく歌がよくて。俺は一緒にやりたいと思ったんだ」

1993年、〈WILLIE'S APPLE(ウィリーズ・アップル)〉結成。平善吉ジュニア(ギター&ヴォーカル)、金戸サトル(ベース)、ポンチ(ドラム)のトリオ編成。男27歳の時である。
バンドは最初から手応えがあった。ヴォーカルに強烈な個性があり、曲の完成度も驚くほど高い。ロックもできるし、メロディも書ける。詞の世界観もある。
男はバンドにのめり込んだ。オリジナル曲があったので、出会って3ヵ月でレコーディングスタジオに入った。互いに意見を出し合い、プレイに対する厳しい要求が心地よかった。半年後には事務所とも契約。すべてがトントン拍子で進んでいった。
「〈これは来たかな!〉って思ったね。俺はデビューできると思ってたから」
しかしバンド活動はそこから停滞する。熱狂的なファンはいるし、イベントにも頻繁に呼ばれるがなかなかデビューという話にならない。バンドを鍛えて曲も増えたが、どうしてもアンダーグラウンドの枠から抜け出せない。
彼らの事務所には旧知のミッシェル・ガン・エレファントも所属していた。ウィリーズとミッシェルを担当したのは同じマネージャーだった。チバユウスケは「俺らはウィリーズのついでに持ってこられた」とうそぶいたが、粗削りで勢いのあるミッシェルの活動にやがてマネージャーはかかりっきりになった。
「あの頃はなかなか先が見えない状態だったね。事務所は間借りしてるくらい。給料なんてないよ。自分が仕事したぶんは手数料を引かれてもらえるけど、給料はメジャーとの契約が取れないと支払われないってシステムだったから」
男は電気工事のアルバイトで生計を立てながら、それでもバンドでのデビューを夢見ていた。気がつけば時間はあっという間に過ぎていった。当時、夢を追うかあきらめるか、30歳が潮時と言われていたが、その年齢も通り過ぎた。
「たぶん自分の中で決心ができる人はそれができるんだよ。俺はずっと流されて生きてる人生だから」
不安定なバンド生活から足を洗えなかったのは、その頃男の前に新しい世界が見えていたからだ。
プロデューサーとしても活動する寺岡呼人と知り合い、いちベースプレイヤーとして仕事を得るようになった。フジイケンジ(My Little Lover、The Birthdayなど)、小島徹也(ヒックスヴィル、オリジナル・ラブなど)、中島ノブユキ(ジェーン・バーキンなど)、SUNNY(ミスター・チルドレン、ゆずなど)、中西康晴(上田正樹とサウス・トゥ・サウス、中島みゆきなど)……綺羅星のようなミュージシャンたちとスタジオに入るようになる。また、寺岡が主催するライヴイベント〈ゴールデンサークル〉では忌野清志郎、仲井戸麗市、友部正人といったレジェンドたちとも共演した。外の世界を知ったことで、自分のやっているバンドが色褪せて見えた。
「そういう人たちとの仕事があったから30歳で区切りを付けるっていうより、まだ先があるような気がしてね。ヨッヒー(寺岡)にはすごく感謝してるよ」
長すぎた春はガマンできなくなった男が匙を投げる形で投了した。1999年、リーダーを務めていたウィリーズ・アップル脱退。この時、男は33歳。
「ここでデビューしとけばね。焦ってた? ていうか〈もっといけんじゃね?〉って気持ちだったんじゃないかな」

その後、マコト(ヴォーカル)、松岡ヨシオ(ドラム)と新たなトリオバンド〈JOHN BRIEF(ジョン・ブリーフ)〉結成。
「面白かったよ。ヴォーカルは10歳近く下。彼の歌も好きだったし。バカなやつでね。いろんな問題も起こすんだけど、一生懸命唄うの。それはそれですごい楽しかったな」
コレクターズやグルーヴァーズ、プライベーツなど男のコネクションで数々のライヴイベントも企画した。しかしジョン・ブリーフも7年後には解散する。
「その時、俺は40。〈これからどうすっぺ?〉みたいな。結局それからまともにバンドは組んでないからね」
恋い焦がれながら叶えられず。結局、男の20代30代はバンド運に恵まれないまま過ぎていった。
