1人ピーズ、2人ピーズ、3人ピーズ。そしてアビさんの帰還と、はるのガン告知
声がかかったみったんは、DVDに客として映っているほど熱心にライヴに通いつめてきたピーズのファンだった。メジャーから離れたあとの作品もすべて聴いている。そのおかげで、すべての曲の構成を覚えていたのが、功を奏したのではないか、と本人は言う。
岡田「武道館の年の年末ぐらいに、はるさんがベースを入れようとしとる、って噂を聞いたんです。で、それが俺だって(笑)。はるさんからじゃなくて、噂で先に聞きました(笑)。だからってわけじゃないですけど、1人ピーズも観に行ってたんです。はるさんが2人で音を出したいって思い始めたのは、僕の勘ですけど、T字路sと紅布で対バンした(註:2018年3月4日)、その時じゃないですかね。そのあたりから、話が具体的になっていくんですよ。3月に渋谷のgee‐geでライヴがあって。その3日前にはるさんからメールが来たんです。『ベース弾く?』って(笑)。急ですけど、僕にとっては大事件ですよ。『どの曲を覚えればいいですか?』って返信したら、『決めていいよ』って返ってきて(笑)。この『決めていいよ』って、すげえセンス問われるやつじゃないですか(笑)。めちゃめちゃ悩んだんですけど〈底なし〉と〈ハトポッポ〉を選んで。当日は結局、4、5曲弾いたんじゃないかな。それ以降ライヴに参加するようになるんですけど『弾く曲だけ出て来るってのは変だから』って、ステージにイスを用意されて。最初からそこに座らされて、2人でやる曲になったら立って弾く(笑)。そんなスタイルでしたね。そっからは挙手制になって、僕が行ける日は2人ピーズで、行けない日は1人ピーズって。で、だんだん弾ける曲が増えてくるから、曲のコードを書いた紙を、すごい枚数もらいました。『見ながらだったらできるでしょ』って」
その年の冬、はるは、本業のマヤーンズ以外にもサポートで叩いていた、ドラマーの茂木左に声をかける。
大木「2015年、トモフスキーのツアーで東北廻った時、マヤーンズが対バンでね。狂った叩き方をする若者のドラマーがいるな、と思って挨拶したんだけど、すごくこっちのバンドを好きみたいだったから、『いつかできたらいいね』って話してたの。そのあとが、2018年の秋かな。弾き語りで北海道に行った時、茂木ちゃんがたまたま、(仲野)茂さんのバンド(LTD EXHAUSTⅡ)で札幌にいたから、ライヴに顔出してくれて。なんかその時、これで3人でできるな、試しに音を出してみようかな、って直感で思ったんだよ。それで12月に、下北沢BasementBarで3人ピーズの初ライヴ。2人の時は『p字路sです』とか言ってたけど、3人だから『PISHAMOです』って(笑)。ドキドキしたけど、こっからまたバンド、続いて行ったらいいなあ、ぐらいだったかなあ」
茂木は高校の頃、コピーバンドをやっていたほどピーズが大好きだったという。
茂木「〈脳ミソ〉とかコピーしてましたね。あと〈ハニー〉とか。ずっと銀杏BOYZを聴いてたんですけど、峯田さんからピーズを知って。で、LTDで札幌に行った時、裏のハコにはるさん来てるっていうんで、挨拶に行ったんですよ。そしたら『最近どう、忙しい?』って聞かれたから『いや俺、めちゃめちゃヒマですよ』ってアピールしたら、メールを何回かやりとりしたあとに、『じゃあ今度一緒に合わせてみよう』って返ってきたんです。で、3人でスタジオに入って、その次はもうライヴでしたね。でも、当日セットリストを見たら、練習で全然やってない曲が何曲か入ってるんですよ(笑)。そこから曲を何度も聴いて、ぶっつけ本番でステージ上がって、6、7曲やったのかな。普段はステージ上がるの、まったく緊張しないんですけど、その時は緊張で身体が固まっちゃって動けませんでしたね(笑)。その次は、12月30日の紅布だったと思うんですけど、その時は7曲ぐらい叩けるようになっていて。でも、前日の夕方にメールがきて、『明日、この曲をやります』ってリストが来たんですけど、30曲ぐらいあるんです(笑)。『叩ける曲だけ叩いてくれ、あとは弾き語りでいいから』って。でも、ステージに上がって叩かないって、どんな顔してたらいいのかわかんないから。その日、バイトで夜勤明けだったんですけど、朝からずっと曲を聴いて、無理矢理30曲叩きました」
そうやって徐々にメンバーが固まりつつあった時期も、はるはアビさんに、時々、誘いのメールを送っていた。
大木「アビさんは、ライヴハウスの現場で音を出したらいい人だから。自分が誘わなくても、誰かがアビさんに声をかけて、ライヴをやったらいいと思ってた。たまに『音を出しに来たら?』ってメールはしたけれど」
しかし、アビさんはそれに応じなかった。
安孫子「メールのやり取りはしてたけどね。でも俺も、一回テンション切れちゃってるしさ。『弾きに来ない?』とか、『たまには音出しに来いよ』ってメール送ってくれたけど……でも、なんかね、出られなかったね。〈ダメだ〉と思ったら全然ダメでさ。人前になんかね、とてもじゃないけど晒せるようなもんじゃない。武道館で区切りついちゃって、自分もそこでひとつ終わってるわけなので」
そんな頑固なアビさんが、遂に姿を現したのが、武道館から2年後の2019年6月8日。はるがひとりで行った〈32周年ワンマン1人ピーズin上野水上音楽堂〉である。アンコールでセミアコを抱えて登場、はると2人で6曲を演奏。それまでアルコール片手に、リラックスしてライヴを楽しんでいた1000人超のオーディエンスは、泣いたり奇声を発したりしながらステージ前に詰めかけ、大騒ぎになった。
大木「派手な復帰になったね。ずるいよ(笑)。あの直前、4月のライヴの時にも声かけたけど、『いや、無理だ』って返事だったのに。6月は、メールしてないのに現れるんだもんね」
安孫子「4月のやりとりがあって、その時は断ったんだけど……俺、なんか、やりたくなったんですよ。なんつうのかなあ……つまんないんですよね。バンドやってないと。つまんなくて、何をやろうとしても中途半端で。カネ稼いで帰ってくるだけじゃ、本当につまんない。音楽に携わってる時って、自分がいちばん浄化されてたのかな、改めて音楽に携わりたいな、って気になって。で、はるに相談したら、『明日ライヴあるから来っか?』って。で、やってみて、本当に、うれしかったし……びっくりしましたよ、自分がいちばん。お客さんに対しても。うれしかったなあ。はるがラフな感じを装ってくれてたのも。ここからスタジオに入って、音楽を作りたいって思いましたね」
ただし、アビさんの申し出を受け入れた頃のはるは、すでに身体の変調を自覚していたという。
安孫子「上野の時に『アビさん、早く来ねえと俺、休みに入っちゃうからな』って言われたんだよな。そしたら、上野のライヴの帰り際、『ちょっと検査に行かなきゃいけないから、また今度な』って言われたの。そのあと『レコーディングをするから、よかったら来るかい?』って誘われて。4曲録ったんだけど。あらかた録り終えた時に、はるが、『俺、ガンだから。これからちょっと休むから、あとを頼むな』って言われたの。『ちょうどアビさんが来てくれたから、助かったよ。ライヴに穴空けたくないから3人でやってよ』って。そんなことより何より、俺、ショックで頭グルングルン回っちゃって、どうしよう、どうしようと思って。それで、できる限り一緒に音を出したいなって。これから入ってるライヴは全部一緒にやらしてもらおう、って決めたの。だから最後に4人でライヴやって、『じゃあ明日入院すっから』って言うはるに『生きて帰ってきてね!』って(笑)」
というアビさんの口ぶりからは、「これが最後になってしまうかもしれない」という思いに駆られていたことがわかる。当のはるもそうだったわけだが、もう少し現実的に、シビアに考えていた。そして逆に、冷静だった。
大木「あのへんはね、自分も、声が出なくなってた時だったから。だましだましライヴをやって、おかしいなあって思ってた。で、終わってすぐ病院に行って調べたら、ガンだった。たまたまアビさんが顔を出した時で、まあ、絶妙なタイミングですな。そのひと月の間に、入ってた関西のライヴ、2、3本だけど、アビさん入れて4人でできるな。いい思い出になりそうだなと。で、1日だけ録音したんだけど、それで音楽やるの、終わりかなと思った。でもおかげさまで戻って来れたね。だって、手術の具合にもよるけど、どこまで切るかわかんないから。ノドまで切ったらもう唄えないしね。まさかまたこんなに唄えるようになるとは思わなかった。ノドのガンじゃなくて食道だから、ギリギリまでノドを残して。先生が『大木さんの仕事が歌を唄うことなら、ノドを残しましょう』って、余計な腕をふるってくれたわけですよ。ありがたい。まあ自分としては、入院が決まって、ギリギリまで、やれるとこまでやったな、って気持ちだった。お客さんはびっくりさせてしまったけれど。ここで終わっちゃってもいいや、って思ってた。がんばれるところまでがんばれれば、自分は納得してしまうタイプなので。あんまり悔しくなかったね、そこで終わっても」
そして、7月18日に、自身が食道ガンであること、そのためしばらく活動を休むことを、はるはブログで報告。初めてこの4人で録った4曲入りシングル「Summer Session 2019」が、そのブランクの間にリリースされた。