『音楽と人』の編集部員がリレー形式で、自由に発信していくコーナー。エッセイ、コラム、オモシロ企画など、編集部スタッフが日々感じたもの、見たものなどを、それぞれの視点でお届けしていきます。今回はあるミュージックビデオを観た編集者が、そこから思い出した日常の出来事について綴ります。
今日はこのコラムの原稿の〆切日。
で、まずはこの動画を最後まで見てください。
ウェールズ出身のケリー・リー・オーウェンスという女性ミュージシャンが昨年リリースしたアルバムからの1曲。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのオリジナル・メンバーだったジョン・ケイルという重鎮がヴォーカルでゲスト参加している点に興味を持つ人も少なくないだろう。俺と同じ世代の人なら。
まぁここではそういう話はどうでも良くて、単純にこのビデオをネタに何か書けるような気がして今パチパチとキーボードを叩いてるんだが、この動画の主役は旧式のポップアップトースターである。食パンを2枚並べてコイツに突っ込んでしばらくすると、焼き上がりと同時にポンとトースターからパンが顔を出す古き良き時代のシロモノだが、ここではそのトーストがなぜか出てこないまま行方不明になってしまう現象が起こる。それでもサンタクロースみたいなオッサンが執拗にパンを焼こうとするけど、トースターの中から焼き上がったパンが浮上することはない。荷物を届けに来た宅配便の兄ちゃんもキッチンに呼び込んでこの超常現象を見てもらうも、それで事態が好転することはない。そのうち場面はサンタさんの家から外に変わり、草原とか道路とかテニスコートとか浜辺にこんがりと焼けたトーストがぽつんと落ちている映像が続く。なるほど、そういうオチなのか、と思うのと同時に、こんなところにあるはずのないトーストがぽつんと落ちているシーンを見て、これから書くことが決まったので書いてみる。
最近外を歩いてると、よく道端にマスクが捨てられているのを目にする。しかも不織布のマスク。白いからアスファルトに落ちてると遠くからでも目立つんだけど、さすがに触る気にはならないんで放置して通り過ぎる。でも頭の中では考える。なぜあそこにマスクが落ちてるのか。仕事帰りの近隣住民が近くのコンビニで買った缶ビールを呑みながら歩いてる時、耳に引っ掛けてたやつをドロップしてしまったとか。そんなわけで、道端にマスクが落ちていても何の不思議もない。けど、この動画のようにテニスコートにこんがり焼けたパンが落ちてたら、え?ってなるだろう。つまりありえない場所にマスクが落ちていたら不思議だし、場合によってはテンパることにもなる。
家から最寄り駅の改札。自動改札機のピッてやるところ。そこを塞ぐようにマスクが置いてあった。ちなみに改札を通る時はすべてが一連の動作で無意識的に身体を動かしている。ズボンの右ケツのポケットに突っ込んであるPASMOを改札の数メーター前で取り出し、その改札の数メーター先の頭上にある電光掲示板で次の電車が何時に来るかを確かめながら、視界の隅っこでPASMOをタイミングよく画面にかざすわけだが、そこにこんがり焼けたパンが鎮座してたら「あわわ!」ってなるだろう。パンじゃなくてマスクだが。
早い段階でマスクを視認できたことで最悪の事態は回避できたが、身体はもう改札機を通過せんと動作に勢いがついていて止められない。かといってマスクを手で瞬時にはね除けるほどの敏捷性は持ち合わせてないし、本来なら立ち止まってマスクを掴んで駅員さんに「これ、落ちてたんで処理してくれます?」と届けてからトイレで手を入念に洗うのが正解だけど、そこまで冷静な対応ができるほどの器の大きさも心の余裕も持ち合わせてない。あーどうしよう! ヤバイヤバイ! ピッてやる前にマスクをどうにかしないと! そんなふうに身体中のすべての動きがギクシャクし始めたその時、マスクだと思われた白い物体を凝視すると、それは単なるポケットティッシュだった。しかも未開封のやつ。なーんだ、てっきりマスクかと思って焦ったよ。こんなところにマスクが置いてあるわけないじゃん。でもポケットティッシュなら理解できるよ。たぶんカバンだかポケットに入ってた定期入れと一緒に慌てて取り出しちゃったんでしょ? あわてんぼうさんだなー。なんてことを思いつつ、安心しながらティッシュを左手で掴み、右手でPASMOをかざしたらアラート音と同時にゲートが閉まった。
「チャージしてください」。家を出る前、残金が足りないからチャージしてから改札くぐれよとあれだけ自分に言い聞かせていたことをすっかり忘れていた。さらに、最近は老眼が酷くて遠近両用メガネが手放せなくなってるのに、この日はそれすら忘れて出かけてしまったことに今さらながら気づいた。そりゃあマスクとティッシュを見間違えるのも仕方ないよね。というわけで会社に行って溜まった原稿を一気にやっつけるぞ!と息巻いて出かけたものの、出鼻をくじかれたショックから立ち直れず、今は自宅でこの原稿をダラダラと書いてるところだ。これ書き終わったらもう一回会社に向かいます。
余談ですがこのケリー・リー・オーウェンスの「On」という曲のMVは、トースターのやつとは対照的でとても悲しくて切ないです。こんなふうに誰かと別れたくない。
文=樋口靖幸