NITRODAYのヴォーカル&ギター小室ぺいが、自身が気になったものを独自の視点で綴っていくWEB連載。今回は、相手や物事を呼ぶ(呼ばれる)時にぺい自身が感じている違和感について。
#16「君」
「きみ」という呼び名があって、僕はなぜかそう呼ばれる方が名前で呼ばれるよりも嬉しい気がする。
名前というのは、考えてみると、僕らに「個」を与えてくれる、もしくは「個」を認識させてくれるという点ですごく便利なものであるように思える。たとえば普通に生活を送る中で1日に一体何回名前を呼ばれるだろう(僕の場合呼ばれない日もあるが……)、だがその一回ずつが持つ、少しのほの暗い違和感というものがある。
それは昔から感じていたところの、どんな仕事に就いているとか、どこの国の人だとか、男だとか女だとか何歳だとか、そういう表層的な情報で人を評価する(決めつける)ことに対する不信感と似ていて、名前で呼ぶということ自体、表層的な「個」を認めているように見えて、逆に本当の「個」、つまりその目の奥の輝きや、心の色に薄い膜を張ってしまうような気も本当に時々ではあるが、するのだ。
僕らは物にも名前をつける。たとえば「ジャンル」というものがあって、僕らは数ある対象をある一定のルールに基づいてそれぞれをいくつかの集合体に分類してとらえる。その中にいる人たちが「ジャンル」を枕に語られることに異を唱えるということはよく見られるが、それは決しておかしいことだとは思わない。個々ではなくまとまりとしての名をフィルターとして当てがわれ、その奥で呼吸が苦しくなるのは、むしろ当然な気がする。たしかに「ジャンル」という「名前」は本当に使い勝手の良いもので、その外側にいる人たちが対象を手にとって眺めたりするためには不可欠なものである。だがそれは確実に外側のためのものでしかないと思うのだ。たとえばある一つの何かに熱中していたとして、「あぁ。それって〜系」だとか横槍を入れられると途端に、そのもの自体から一枚壁を挟んだような、熱の外側へ弾き出されたような感覚を覚える。その瞬間まではっきりと「個」を捉えていたはずなのに。
僕は結局「名前」が持つ断定的な態度がキライなのだ。不勉強ながら言わせてもらえれば、そういう決めつけをやめることで人種間の対立みたいな大きな問題や、もっと隣の人同士のささいな行き違いだっていい方向に向かっていくんじゃないかと思う。だけど僕だって別にいつもこんなことを考えているわけではなく、むしろ本当に何の気無しに誰かの名前を呼ぶことばかりだ。それでも気をつけていたいのは、名前の奥にあるものをたくさん想像して、触れて、そのまま受け取る、そういうことだ。
Information
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小室ぺいが出演する映画『君が世界のはじまり』(監督・ふくだももこ)が2020年7月31日より、テアトル新宿ほか全国ロードショー
https://kimiseka-movie.jp
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