〈チャットモンチーの〉ってついてない素の自分で移住先の人たちとおることで、自分が新しくできていってる感じ
そんな彼女の正直な告白を聞きながら、以前のインタビューでの言葉を思い出していた。それはチャットモンチー6作目のフルアルバム『共鳴』のリリース時、ちょうどデビュー10周年という節目でのインタビューだったのだが、この10年でどんな変化があったのか?といった質問に対して、「これからは〈バンド=自分〉ではなく、自分の人生に沿ってバンドがあるといいなと考えるようになった」といったようなことを話してくれたことがあった。
もともとチャットモンチーのいちファンとして、高校生の時に橋本と知り合い、その後メンバーになったという経緯しかり、デビュー当時からのメンバーであったドラムの高橋(久美子/チャットモンチー元ドラム。現在、作家・作詞家として活動中)がバンドを卒業し、2人体制になった時には、みずからドラムを叩くと宣言するなど、つねにバンドの歩みを止めないように率先してアクションを起こし、なによりもチャットモンチーを最優先にしてきた人だった。当時、橋本の産休による活動休止期間を経たタイミングということもあって、先のような言葉が彼女の口から出たわけだが、そんな福岡だからこそ、なかなか自分軸で音楽と向き合うことにシフトできないところもあったのだろう。
「うん。それこそ24時間チャットモンチーのことを考えてて、夢にも出てくるくらい(笑)。15年近く、ずっとバンドありきの音楽生活やったから、それが一気になくなったら、やっぱボケるというか(笑)、ほんまに〈あれ?〉ってなって。完結後に、OLUYOで月1ペースでイベントを企画したり、ショップBGM作ったりとか、バンドプロデュースをしてはいたけど、えっちゃんには歌が、久美子には言葉、みたいに、私には〈これ!〉っていうものがないまま、なんか定まらない感じやなと思ったし。だから〈何が自分?〉〈どれが自分?〉ってこともすごく考えましたよね」
しかし、移り住んだ先で新たに出会った人たちや、地元の知り合いとの交流、そしてOLUYOにやってくる旧知のミュージシャンらとの会話が、彼女の心を少しずつ解きほぐし、自分の歌へと向かっていく後押しとなっていった。
「移住先で知り合った3家族がいて。みんなうちから徒歩15秒圏内に住んでるんやけど(笑)、世代が近かったっていうのもあって、すぐ仲良くなって。うち入れて4家族で、週2、3くらい、誰かしらの家で呑んだりしてるし、それこそ、雨降ってきたら布団入れておいてくれたり、朝一でバターなかったら借りに行ったり(笑)。同居はしてないけど、拡大家族みたいになってて。そこのみんなは、私のことを〈晃子〉って呼ぶんやけど、今までは、〈あっこ〉とか〈あっこちゃん〉って呼ばれてたから、なんか本来の名前を取り戻した感じがあって。しかも、音楽を仕事にしてる、ただの近所の人っていう感じで、すごくフラットに接してくれるから、なんか〈チャットモンチーの〉ってついてない自分が今ここにはおるんやなあって思うし、素の自分で人と一緒におることで、自分が新しくできていってる感じがあって、それがやっぱり自信にもなったのかなって」
そしてもうひとつ、子供の存在もまた、彼女にとって大きな気づきをもたらしてくれたものとなった。
「子供といると、めっちゃ自分のことがよくわかるんですよね。幼児ってすっごい素直やし、まったく打算のない素の反応をするから、なんか自分自身を突き付けられるような感じもあって。何気なく言ったひと言にすっごい嬉しそうしてるのみて、ヘェ〜って思ったり、逆に〈もっとお母さんっぽくおれると思ったんやけどヤバいな〉って反省させられたり。でもそこで、いちいち一喜一憂してても育てていかないかんし、〈これが自分なんやからしょうがない。こういう親としてやっていくしかない〉って、自分のことを認めざるを得なくなるんですよね。今まで理想の自分ばっかり追いかけていたけど、いい意味で諦めたというか。私は私でしかないんやなって思えるようになりましたね」
自分の写し鏡のような存在と過ごす中での気づき。そして何者でもない自分を受け入れ、認める人たちに出会えたこと。それらが、「自分のための音楽」を作ることに躊躇していた彼女の背中を押した。
「武装するよりも、今は素の自分の筋トレをするほうが大事なんやって。そう思えたのも、自分の中では大きかったし、この環境にいれてることの幸せだったり、今の自分を作品にできるなって、最終的に思えてきたんです」
そうやって吹っ切れてからは、一気に制作が進み、半年ほどの期間でアルバムが完成した。今回収録された7曲を同時進行で制作したというが、まず最初に形になったのは、先に発表された「Heart Beats」だった。共同プロデュースを務めたYasei Collectiveのドラマー、松下マサナオとの作業は、最後まで彼女の中にあった〈自分の歌声〉に対する引っ掛かりを解消してくれるものにもなった。
「何かに使えたらいいなって思って、お腹に子供がおる時に録音してた心音をサンプリングして、それをリズムにした曲にしようってことだけを決めて、なんとなく作ってたデモがあって。で、マサナオが、OLUYOでイベントをした時に、そのデモトラックを元に、当日ぶっつけ本番で一緒に演ったんですけど、それがめっちゃ良くて。そういう流れもあって、この曲はマサナオにプロデューサーとして参加してもらったんです。基本的にはデータでのやり取りだったんだけど、ヴォーカルに関して『上手く唄おうとせずに唄ってほしい』ってアドバイスがあって。それで徳島のスタジオでヴォーカルを録って送ったら、『めっちゃ歌いいやん! こういうのが合ってると思うよ』って言ってくれたんですよね。それでなんとなく自分が唄う感覚というものを掴めたところもありましたね」
「マサナオがおらんかったら、アルバムができるまで、もっと時間かかってたかもしれない」と福岡が言うように、きっと松下の言葉がなければ、group_inou(現在活動休止中)のトラックメイカー、imaiとの共作曲である「Marble」のような、歌メロをしっかり聴かせるナンバーも形にならなかったことだろう。imaiもまた、彼女の背中を押したひとりだという。
「group_inouが活動休止して、ソロで活動するようになった頃、『ソロってどうなん?』みたいなことを聞いんですよ。そしたら、『ソロになってすぐのライヴ、マジで全然お客さんいなかったんだけど、それ見て〈こっから俺、何でもできるじゃん!〉って大興奮したんだよね』って言ってて。その視点まったくなかったわ!って思ったし、〈そっか。なら私も今から何でもできるんか〉って。同時に、自分が〈チャットのファンの人がどう思うだろう?〉とか〈自分の歌なんて求められてるのか?〉とか、そういうことに気を取られてる自分にも気づけたんです」