『音楽と人』の編集部員がリレー形式で、自由に発信していくコーナー。エッセイ、コラム、オモシロ企画など、編集部スタッフが日々感じたもの、見たものなどを、それぞれの視点でお届けしていきます。今回は新潟出身の編集者が、一人旅での思い出を綴ります。
マンションの掲示板に、誰かが落としたであろうキーホルダーが画鋲で引っかけられていた。某国民的キャラクターが笹団子の被り物を身に着けたそれは、新潟県にしか売っていないご当地限定と言っていいだろう。ということは、落とし主は新潟出身? だとすると、私と同じ地元? その人も、コロナ禍で故郷に思いを馳せながら、この大都会で仕事に勤しんでいるのだろうか――なんて瞬時に妄想を繰り広げて高揚してしまうくらい、今は地元が恋しいし、帰省したくて仕方がない。というか、どこかへ旅に出たい。
自分のターンでは毎回好きなものについて綴ることにしているが、今回は「旅」について。私は10代の頃から一人旅が好きだ。そもそも旅をするようになったきっかけは、高校生の頃からライヴの遠征を一人でするようになり(それまでは父親が付き添ってくれていた)、ライヴが始まるまでの間、各地の食や名所などを堪能しているうちに、旅の非日常感に魅了されていき、しまいにはライヴは関係なく「旅」を目的に出かけるようになった、という感じだ。そして、一人旅が好きなのはなぜかと言うと、一人のほうが現地で声をかけられやすく、いろんな人と接することができるからだ。
私は身長が170cm以上と高めなので、良くも悪くも目立ってしまう。だからか、旅先だけでなく、日頃から道を聞かれたり話しかけられることが非常に多い。ある時はバスを待っていたらおばあさんに声をかけられ、そのまま一緒に乗車し、私が先に下車するまで、おばあさんの嫁姑問題についての悩みを聞いたことがあった。おばあさんが表面上は笑みを浮かべながらも、どこか沈んでいる雰囲気を醸し出していたので、放っておけなかったのだ。このおばあさんのように、困ってそうな人から声をかけられるたびにできる範囲で協力するようにはしているが、唯一、通勤中に『アド街ック天国』に声をかけられた時だけは、どう対応すれば面白いのかが瞬時に思い浮かばず足早に通り過ぎた思い出もある。話が脱線してしまったが、私は声をかけやすいのか目立ちやすいのかはわからないが、旅先で自分自身が困っていても、それをスルーせずに助けを申し出てくれる親切な人によく遭遇する。特に印象に残っているのは、一昨年、一人でフランスに行った時のことだ。
そのフランス旅行が人生初の海外旅行だったので、私はパリに着いて早々に凡ミスを犯した。それは、自分の持っていたクレジットカードがICチップ付きでなかったため、地下鉄で切符を買おうとしたところ、カードが全く反応せずしばらく途方に暮れていた、というものである。もちろん現金は持っていたものの、スリに遭うのが怖くて最低限の金額であったのと、カードは1枚しか持っていなかったうえに、ICチップの有無に原因があることを知らなかったので、平然を装いながらも内心パニックに陥ってしまったのだ。
すると、フランス人の老夫婦が声をかけてくれた。しかし、私はフランス語など全く話せないので、中学生レベルの英語とジェスチャーを交えながら事情を説明すると、その夫婦も一緒になってカードを出し入れしてくれたのだが、当然券売機は何の反応も見せない。「困ったねえ」なんて言いながら寄り添ってくれる夫婦の優しさに感激しながらも、この騒動に付き合ってもらうのも申し訳なくなり、お礼と共に「駅員さんに聞いてみますね」と改めて中学生レベルの英語とジェスチャーで伝えてその場を去ろうとしたら、老夫婦が購入した切符を「どうぞ」と私に差し出してきたのだ。「いやいや! さすがにそれは!」と断ったものの、「いいから! パリをエンジョイしてきて!」的な返事と共に、笑顔でフォローしてくれた紳士にそれ以上断るのは逆に失礼だと思い、私は「サンキュー……!」と切符を受け取り、一礼をしてその場を去った。日本を発つまでの数日間、フランス語の本を読み込んだにもかかわらず咄嗟に英語で返してしまい、「メルシー」と言えなかったことはいまだに後悔している。
もう一つは、巨大ステンドグラスで有名なサントシャペル教会を訪れた時のこと。ステンドグラスをバックに自撮りしたいと思い立ったのだが、個人的に自撮り棒がどうも好きになれないので、その時も当然所持しておらず、私はパリの各地でも残念な自撮りを撮影し続けていた。しかし、あまりにもステンドグラスが美しく、ここではどうにかして一生残るようなまともな記念写真をおさめたい……と、どうしても諦めきれずにいた。けれど、誰かにカメラなり携帯を渡すと、そのまま盗まれるんじゃないかと不安……。荘厳な教会の片隅で葛藤に苛まれていた時、アジア人の女性から声をかけられた。少し恰幅のいい彼女は、旦那さんと思わしき人と子供4人と一緒に来ていたようで、英語で「写真を撮りましょうか?」と提案してくれた。私はおずおずと携帯を手渡し、めでたく記念写真の撮影に成功したのだ!
が、いざ写真をチェックしてみると、その仕上がりにしっくり来ない。別にピントが合っていなかったり、ブレていたわけではない。単純に自分の顔が気にくわなかったのだ。撮ってもらっておきながら本当に申し訳ないのだが、なんとなく気に入らないそれを見つめる私の表情を見て、心情を察してくれたのだろう。なんと、女性が撮り直しを提案してくれたのだ。しかし彼女の英語が流暢過ぎるあまり、何と言っているのかわからず、私は彼女をジッと見つめ続けてしまい、丁寧な言葉で何度も提案してくれていた彼女もいい加減痺れを切らし、私でも意味が伝わるように、突如「アイ・ヘルプ・ユー!!」と簡潔にデカい声で叫んだ。〈私があなたを助ける〉。日本人ではなくても、例えば歳の近い男性にそんなことを言われたらきっと心がときめいたのだろう。しかし相手はどこかの国の肝っ玉母さんなので、ロマンスの類いが生まれることはなかった。
フランスでは他にも心温まる出来事がたくさんあったのだが、国内外問わず、こんなふうに旅先で人の優しさに触れる瞬間がたまらなく好きだ。こういった思い出は、今でも時々思い出しては噛みしめている。例えば今朝も、駅のホームでおじさんたちが罵り合っていて、心底くだらないと思うような出来事があった。その一方で、自分がトラブルの当事者でないにしろ、そういった人の感情に左右されたり、その時のショックを引きずる自分の性質にはつい嫌気がさしてしまう。しかし、旅での時間を思い出せば、なにも世界は目の前にあるものがすべてではないと気づくことができて、気持ちが楽になるのだ。日常で嫌なことがあっても、あの時もらった優しさを自分が今度は誰かに返していけたら、それでいい。そんなふうに、旅での出会いは前向きな自分にも出会わせてくれる。
〈僕はきっと旅に出る 今はまだ難しいけど/未知の歌や匂いや 不思議な景色探しに/星の無い空見上げて あふれそうな星を描く/愚かだろうか? 想像じゃなくなるそん時まで〉
これは、スピッツの14thアルバム『小さな生き物』に収録されている「僕はきっと旅に出る」という曲の一節だ。この曲はコロナ以前から好きだったが、今の状況と重ね合わせずにはいられない部分が多く、つい何度も繰り返し聴いてしまう。自分の場合、旅に出たい出たいと言っているわりに、コロナが収束しない限りは実際に遠出をすることはなく、脳内旅行で片付けて結局モヤモヤするのだろうが、それはそれでいい気もする。とはいえ経済を動かすことも大切なので、様子を見て都内で旅行というか、山に天体観測をしに行きたいなとは考えているのだが……。遠出や帰省に関しては、この曲を聴きながら〈想像じゃなくなるそん時〉を待ちたいと思う。地元の風景、家族、友達を思うと、どうしようもなく寂しくなる瞬間もある。でも、長過ぎてたまにうんざりする「人生」という旅の中で見れば、この我慢はきっと一瞬なのだから。
文=宇佐美裕世