『音楽と人』の編集部員がリレー形式で、自由に発信していくコーナー。エッセイ、コラム、オモシロ企画など、編集部スタッフが日々感じたもの、見たものなどを、それぞれの視点でお届けしていきます。今回は50歳を過ぎた編集者が、自身の身の回りで起きている出来事を赤裸々に綴ります。
本来こんなところで個人的な出来事を綴るべきではないとわかっているが、このページはこのページで数ヵ月に一度は何かを書いて埋めなくてはならず、そして今どうしても自分が置かれている状況を記録しておきたい欲求があり、悩みに悩んだ末に書くことにした。何を書くかと言うと認知症の症状が急変して精神病院に入院した父親のことと、それ以外にも親の介護や諸々の手続きに奔走したここ数ヵ月のログである。はっきり言うが読んでいて楽しいものではない。むしろ気が重くなるだけの不快な文章だろう。それでもあえて、読み手のことを気にせず、誰かの意見やアドバイスにも耳を傾けず、どこまでも自分本位な原稿を書いてみたくなった。そういう原稿を書くとどうなるのか、今さらだが試してみたいと思う。長尺になりそうなので日記形式で、何回かに分けることにした。
7月30日
前日の夕方、実家付近を担当する地域包括センター相談員から電話。自宅に父の様子を見に行ったが明らかにこれまでとは違う様子で、早急に保護入院の必要があるかもしれないという。保護入院とは患者自身が症状のことや治療が必要なことを理解できず、医師の診断と家族の同意によって行う緊急措置入院のことを指す。アルツハイマー型認知症の症状においては、過食、暴言、せん妄、幻覚、幻聴、徘徊、暴力などがある。数年前から認知症ではあるものの比較的穏やかに過ごしていたはずの父は、7月初旬のとある事態をきっかけに症状が急激に悪化、同居している母親への暴力をはじめ、先に挙げた行動すべてが出ていて手に負えない状態になっていた。コロナで1年以上帰ってなかった実家に慌てて戻ると、予想通り父親は別人のような顔つきをしていて、息子である自分のことも曖昧にしかわからない様子。予想外だったのは、心身ともに疲弊した母の変わり果てた姿だった。どちらかが先に死ぬかと言えば、明らかに母のほうがヤバい感じである。父の記憶はまだらになっていて、息子が久しぶりに帰ってきたことがわかる瞬間もあれば、突然「金を貸してくれ」「俺を家に帰してくれ」とすがりつき、それが数時間の中で何度も繰り返される状態。骨粗鬆症で痛めた腰をかばいながらそんな父の介護を続けていた母にとって、地獄のような日々だったことだろう。暴力から逃れるためにトイレに逃げ鍵をかけ、しばらく落ち着くまでジッとする日もあったという。また、1日に12回も食事を要求され、暴力を恐れそれに従っていたそうだ。
7月31日
朝イチで父のかかりつけの総合病院へ出向き、措置入院に必要な診断証明書を申請。院内でコロナのクラスターが発生した直後だけあって、病院内には物々しい空気が漂っている。その後、紹介された精神病院とコンタクトを取るも、すぐに入院できる見込みはないという。が、相談員の方が病院と交渉してくれたおかげで、翌日に診察、その結果次第だが数日後に入院、という段取りが決まる。その後は半分ゴミ屋敷と化した実家の片付けと掃除に専念。ゴキブリの死骸を処理し、カビを餌にして繁殖する虫を退治しながら、老夫婦の生活のリアルに胸を痛めた。
8月2日
車内で父が暴れる可能性を踏まえ、自走ではなく介護タクシーで精神病院へ。日を追うごとに症状が悪化しているため、24時間体制での父の介護はすでに限界を迎えており、1日でも早く入院させたいところ。診断の結果、重度の認知症であることが知らされる。おそらく認知症を発症したのはかかりつけ医に診断されるより数年以上も前だという。その頃まだ父は運転の仕事をしていたことや、東京の家まで車で来たことを振り返ると、よくぞ事故を起こさなかったものだと思う。3日後に入院できることになる。
8月5日(前編)
入院日。再び介護タクシー。昨晩は朝まで「家に帰りたい」「金を貸してくれ」「仕事に行く時間だ」「なんで飯を食わせないんだ」をランダムに主張しながら暴れるのを阻止する無限ループにひたすら対峙した。自分の息子を「ダンナ」と呼び、どこに住んでいるのか、田舎はどこか、どんな仕事をしているのかなどを聞かれる始末。しかし、おそらくこの20年ぐらいの間、一番長く父と会話をした時間でもあった。すでにそれを父が実感できない状態にあるのが悲しいものの、こんなことでもなければ朝まで父と話し込む機会などなかったかもしれない。入院の受付をしているところで医師に呼び出され、血液検査で父の血糖値が600以上という、いつ昏睡状態になってもおかしくない状態にあることを知らされた。今すぐ専門の治療ができる病院に入院する必要があります、ここでは手に負えません。命の危険が迫っているんですよ、と言われたものの、すでに父との格闘に疲弊しきっていた母と息子は、そんな重篤な父の状態を知っても、何一つリアクションをとることができなかった。(次回に続く)
文=樋口靖幸