昨年秋に届いた赤い公園・津野米咲の訃報。メインコンポーザーであり、リーダーでもあった彼女を突然喪った3人のメンバーは、今年に入りバンドの歩みを止めることを決めた。5月28日、中野サンプラザで行われたライヴをもって解散した赤い公園。その終わりによせて、デビューを直前に控えた彼女たちと出会い、その後、津野米咲らメンバーと親交を深めてきたライター・三宅正一が、約11年半に渡るバンドの歴史を振り返りながら綴った思い――10月29日にラストライヴを収めた映像作品『赤い公園 THE LAST LIVE 「THE PARK」』がリリースされるに際し、改めてこのテキストを再掲載したいと思う。
(以下原稿は『音楽と人』8月号に掲載されたものです)
赤い公園の存在を知ったのは、2011年2月。きっかけはEMIミュージック・ジャパン(現・EMI Records)に勤める友人と呑んでいる時だった。それは彼女曰く、「すごい新人バンド」を僕にプレゼンしてくれるための酒席だった。当時、僕は日本のバンドシーンにすっかり興味を失ってしまっていて、プライベートではヒップホップばかり聴いていた記憶がある。そういう状態だったから酒を呑むのはいいけれど、新人バンドのプレゼンという部分には気乗り薄だった。
「立川にすごいガールズバンドがいて。曲もライヴもまだ荒削りだけど、可能性しかないから!」
そう言うと、彼女はiPadをこちらに手渡した。聴かせてくれたのは、「透明」という楽曲だった。とらわれなき感性をもってオルタナのはるか先まで飛び越えてしまったサウンドと、誰の足跡もついていないポップミュージックの地平に着地した歌のあり方。あまりのインパクトに僕は音源を聴きながら思わず笑い、彼女に握手を求めた。
「すぐにライヴに行かせてほしい」
今度はこちらから彼女にお願いした。
僕にとっての赤い公園はすべて「透明」から始まった。初めて赤い公園のライヴを目撃した日の終演後に津野米咲と長い立ち話をした。「透明」を聴いてそれ一発で惹き込まれてしまったこと、「このバンドはロックとポップの次元をひっくり返せると思う」などとまくし立てるように述べると、彼女はこちらの熱量に気圧されることなく、「うんうん」と真摯に受け止めてくれた。また彼女は最初から「ちゃんと売れたい」とも明言し、こう付け加えていた。
「私もこのバンドの可能性をすごく感じていて。ライヴを観てもらって伝わったと思うんですけど、メンバーもみんなどこかネジが外れてるので(笑)、どこまでも行ける気がしてるんです」
★
赤い公園の結成は2010年1月。ヴォーカルの佐藤千明、ベースの藤本ひかり、ドラムの歌川菜穂、そしてギター及びメインソングライターでありバンドのリーダーでもある津野米咲は東京・立川にある同じ高校に通っていた。津野は他の3人の1学年先輩で、藤本と歌川は軽音楽部の後輩にあたる。当初は、藤本と歌川がコピーバンドを組んでいたが、ヴォーカルが脱退。そこで藤本が仲のいい同級生だった佐藤を新ヴォーカルに誘った。佐藤の加入後、今度はギターが脱退してしまい、藤本は軽音楽部で憧れの先輩だった津野にダメ元で声をかけた。当時、家庭の事情で高校卒業後に大阪に引っ越す予定だった津野は期間限定の条件付きでバンドに加入。ところが、津野が加入記念に作った2つのオリジナル曲にメンバー全員が強烈な手応えを覚えた。そして津野は大阪行きをキャンセルし、赤い公園に残ることを選んだ。
津野米咲は最初からバンドを大局観で捉えていた。父と祖父が作曲家で祖母が宝塚出身、さらに母はピアノを、2人の兄はギターやドラムを弾けるという音楽一家に生まれた彼女は楽典を学んだ経験はなかったが、感性と頭脳を拮抗させながら和声と旋律、歌詞の言葉を創造できる人だった。みずから手がける楽曲はデモの段階で全楽器のフレーズを事細かく指定し、それをメンバーに渡す。ところが、いざメンバーが演奏すると、まったくデモ通りにならず、想像もしてなかった新しい息吹が表出した。自分が唄うとアニメ声になるからと、主旋律をその喉で鳴らすことはない。けれど、佐藤が歌唱すると自分の創造した楽曲が、みずからで唄う以上に生々しい響きを宿した。そんな無軌道で底知れないメンバーの天然な音楽力を津野米咲は求め、愛していた。
★
津野米咲の交友関係は本当に広かった。生業や性別や年齢差を問わずたくさんの友人がいて、誰もが彼女の才能に敬意を抱き、その人懐っこさを愛おしく思った。僕もいつしかごく自然に親しい友人と呼べる関係性になっていた。礼儀正しく、人を笑わせることがとにかく大好きで、いつもその場にいる誰かのことを気にかけていた。何よりもメンバーのことを案じていたし、バンドのリーダーでありながら、時にプロデューサーのようでもあり、もっと言えば保護者のような顔を見せることもあった。ただたまに、どきっとさせられるほど寂しそうな顔を浮かべることがあった。滅多に弱音を吐かないが、じっくり顔を突き合わせて対話する時は素直に不安や不満を吐露した。愛煙家で、つねに何箱も持ち歩いているショートホープが彼女のトレードマークだった。
デビューした年の2012年10月。米咲が体調を崩し、バンドは早くも活動休止期間に入ってしまう。あの時も彼女は友人たちに支えられていた。僕も折を見て連絡をとり、彼女の具合が許せば海外アーティストのライヴに連れ出したりした。休止期間中も米咲は曲を作り続けていた。そのデモの数は40曲以上。SMAPに提供した「Joy!!」も休止期間に生まれたものだ。
生きがい──彼女をつなぎとめていたのは音楽そのものだった。米咲は休止期間中のことをこのように振り返っている。
「とにかく曲を作りたかっただけ。今まで自分が人生で何を見て、誰と会って、どんな場所に行って、どういうことを感じて、どういう思いをして今日まできたかを考えると、思い出す風景にはいつも音楽があって。だから、休んでる時も食う、寝る以外ですることが音楽しか思い浮かばなかったんです」(音楽ナタリーにて筆者が担当したファースト・フルアルバム『公園デビュー』のインタビューより)
★
米咲が復帰してからの赤い公園は精力的に動き続けた。順調にリリースを重ね、それまでなかなか楽曲の特別な魅力にメンバーの演奏力や表現力が追いついていなかったライヴの精度も目覚ましいばかりに上がっていった。
2014年9月にリリースしたセカンド・フルアルバム『猛烈リトミック』は、亀田誠治や蔦谷好位置、蓮沼執太をプロデューサーに迎え、米咲のソングライターとしての多面性が開花し、プログライミングも積極的に取り入れながらサウンドプロダクションの奥行きも拡張した作品だった。セールス的には満足のいく結果を残したとは言えないが、アヴァンギャルドさとポップネスが絶妙なバランスでせめぎ合う独立したその音楽像は、世間よりもメディアや同業のアーティストたちから力強い反応と評価を受けた。
この『猛烈リトミック』というアルバムには、格別の思い出がある。2014年ごろからさまざまな縁が重なり、僕はGARAGEという下北沢にあるライヴハウスの事務所スペースの一角を借りて原稿を書いては、仕事が片づくと夜な夜なスタッフやミュージシャンたちと酒盛りをしていた。人が人を呼び、それまで交友関係のなかった者同士が打ち解けていくのが楽しかった。そんな流れの中で必然的にGARAGEで主催イベントを企画するようになり、2014年4月に佐藤千明&津野米咲(from 赤い公園)、奇妙礼太郎、シークレットアクトとしてスガ シカオ、DJにPUNPEEという、かなりカオティックなラインナップのイベントを開催した。
このイベント当日だったと思う。以前からライヴで聴いたことがあった「TOKYO HABOR」という未音源化曲に対して「次のアルバムに〈TOKYO HABOR〉を収録するならラッパーを入れたらいいんじゃない? たとえばKREVA氏とかPUNPEE氏があの曲でヴァースをキックしてくれたら最高だと思う」と、米咲に提言した。赤い公園の多彩な楽曲群の中でも珍しいタイプの、瀟洒なコード感とアーバンなサウンドスケープをまとったこの曲にラップが入ったら求心力がさらに増幅するような気がしたからだ。当初、米咲は「赤い公園の曲にラッパーを入れるなんて大丈夫かな?」と不安の色を滲ませていたが、「前向きに考えてみるね」と言ってくれた。結果的に「TOKYO HABOR feat. KREVA」が実現し、『猛烈リトミック』に収録されることになった。その会心の出来に僕も我が事のように悦喜した。