これまで多くのミュージシャンを取材してきた。
編集長になって20年。ずっと取材を続けてきた人もいる。しかし会わなくなってしまう人が遥かに多い。昔、毎月のように会って取材してた人ですら、時と共に疎遠になっていく。50歳を過ぎたあたりから、無性にその人たちに逢いたくなった。編集者としての自分に何らかの影響を与えた人と、今、話をしたかった。
今回はGOING UNDER GROUNDの3人に会いに行った。9月11日にアルバム『ホーム』の再現ライヴを行い、11月6日にはアルバム『おやすみモンスター』の再現ライヴが新代田FEVERで控えている彼ら。メンバーが脱退して、その活動スタイルも大きく変わった彼らが、収入や家族、バンドの現在など、赤裸々に語る。
(これは『音楽と人』10月号に掲載された記事です)
GOING UNDER GROUNDは、とても思い出深いバンドだ。
埼玉県桶川市出身の5人組は、その切なく青い楽曲とは対照的に、田舎臭く、垢抜けない。ブルーハーツやWEEZERが大好きで、その影響を強く受ける、メジャーファースト・アルバムの『かよわきエナジー』は大名盤で、このアルバムに収められたタイトル曲をライヴで聴くと、いつも涙がこぼれた。惚れ込んで、表紙も2回飾った。その後、日本武道館でのワンマンライヴも行い、バンドとして、順調に歩んでいるように、傍からは見えた。
しかし時を重ねていくにつれて、何かが変わっていく。ファーストにあったあの世界観を追い求めすぎたのか、どんどん何かが薄まっていく。無邪気さも失われ、メンバーは2人脱退。メジャー契約は切られ、事務所も離れた。明らかに何かがおかしくなっていた。
松本素生(ヴォーカル&ギター)「普通だったら丈(河野丈洋/ドラム。2015年脱退)が辞めた時点で、バンドは終わってるんですよ。セールスも落ちてたし、当時、年齢も30代後半。音楽辞めて普通の生活するなら、まだギリギリどうにかなれた。でもみんなできなかった。結局、僕らはミュージシャンなんかじゃなくて、バンドが好きなだけだったんですよ。そいつらだけが残ったんです」
中澤寛規(ギター)「その前に洋一さん(伊藤洋一/キーボード。2009年脱退)が辞めてから、正直俺は、なんでバンドやってるのか、よくわかんなくなってた」
松本「ゴーイングの名前でまだ稼げたから、それをお金にするために活動していく。事務所がそういう考えだったんですよ。ビジネスとしてだけ考えたらそれもありなんでしょうけど、そんなこと、メンバー誰もやりたいと思ってなくて。そこから事務所とゴタゴタし始めたんです」
石原聡(ベース)「僕はマネージャー兼任だったので、当時の社長と板挟みになることが多くて。まあ……大変でした。丈が辞めたいってことも、まわりから事前に聞いてたんです。だから丈からメンバーだけで話したいって言われて、喫茶店に集まった時は、ああついに来たか、と思って。丈がそれを切り出したあと、3人で話したんですけど、素生が『もうバンド辞めるっしょ!』って言ったんですよね」
松本「丈が辞めるって聞いて、なぜだか『これでバンド辞められる』って、清々した気持ちでいたんですよ」
中澤「肩の荷が下りた、そんな感じでしたね。その頃、事務所との関係が本当によくなくて。丈が辞めることにしたのも、それが一因だったから。だからそのタイミングで、俺たちも事務所を離れることは決めてたんですよ。とにかくリセットしないと、なにも始められなかった」
よく覚えている。なぜならゴーイングの事務所は、当時、音楽と人とフロアをシェアしていたからだ。経営的に苦しそうなのはわかっていた。取材ではあんなに無邪気な顔を見せるメンバーが、みんな暗い顔をしていることが多く、後期は会社でメンバーの顔を見ることも減った。中でも石原はマネージャー兼任だったこともあってか、よく怒られていて、うまくいかないことのスケープゴートにされていた。
石原「よく社長に怒鳴られてましたね。あの頃、めちゃくちゃ悩んでて、考え込むことが多くなってました。気づいたら、後頭部に円形脱毛症ができてたんですから」
中澤「当時、僕らにはほぼ給料入ってなかったんですよ。だけどお金になる仕事なら、事務所は何でも受けてて。九州で1本、ライヴの予定が入ったら、ハイエースで丸一日かけて走って、終演後すぐ移動。ちょっとでも売り上げ立てるために、その帰路にライヴを組む。その街まで移動して、次の日にライヴして帰る。だけど、そんな辛い行程でライヴやっても、僕らにお金が入ってくるわけでもないんですよ」
石原「要するに気づいたら事務所をまわすための活動になってたんです。当時、みんなバイトしてたし……そうだ、俺、すた丼屋でバイトしてたな。その店の常連が志磨くん(志磨遼平/ドレスコーズ)で」
松本「その話が、彼と仲の良いおとぎ話に伝わったんだろうね。有馬(和樹)くんから『石原さん、深夜のすた丼でバイトしてるらしいけど、大丈夫ですか?』って連絡が来たもん(笑)」
石原「一番キツかったのは、素生がソロでCD出した頃だよ。俺、マネージャー兼任だったから、インタビューの原稿チェックしてくれってメールが来るんだけど、バイト中だから見れないじゃん。でもディレクターから何回も電話くるから、トイレ行くふりして電話に出て。『今バイトなんで、朝4時に帰ってからでもいいですか?』って話してる。俺は何やってるんだろう、って思ってた」
中澤「僕ら、わりと無邪気にバンド始めて、お金のことは事務所に任せて、楽しくバンドやろうって感覚でずっと来ちゃってたんですけど、ようやくそこで気づくんです。これじゃ楽しくないって」
デビューから約10年が経っていた。みんな音楽やバンドではなく、自分たちを取り巻く環境に絶望していた。その5年後、河野が脱退を切り出した時、あんなにバンドが好きだった松本と中澤は疲れ切っていて、これで辞めることができるとホッとしていた。おかしな話だ。松本が話していたように、普通、バンドはここで解散する。それを引き止めたのは、なんと石原だった。
松本「丈は辞めることを決めてたし、俺とナカザは、こんな薄汚い世界からもうサヨナラするつもりでいたんです。だって友達が苦悩して、後頭部にハゲ作っちゃうんだよ? そんなの楽しくもなんともないじゃないですか。ここには俺が好きだったバンドや音楽がない。だからゴーイングは解散して、まったく違うところで、ひとりで音楽やるつもりでした」
中澤「俺はどうしようか悩んでたけど、ちょっとホッとしてたのは確かなんですよ。肩の荷が下りた感じ。今いる状況をもう続けなくてもいいか、って、そしたら石原が『もうちょっとバンドやろうよ』って。予想もしないことを言い始めて(笑)」
松本「その言葉が心に響いたとかじゃなくて、疑問が湧いたんですよ。一番音楽的な才能はないし、伸びしろもない。なんならバックボーンもそんなにあるわけじゃない。ただ俺たちと友達だったから一緒にいる幼なじみのこいつが、バンドのことでハゲ作るほど悩んでんのに、なんでバンドやりてえんだ?って。で、その日家に帰って、嫁さんにも言ったの。『もう今日でバンド辞める。もう決めてきた。食えないし、楽しくないし、丈も辞めるし、やってる意味がない』って。そしたらめちゃめちゃ泣かれたんですよね。うちの嫁さん、このバンドになる前、桶川でみんながただの友達の頃から知ってるんだけど、『自分は得意なことも、秀でたことも何もないから、ゴーイングが誇りだと思って一緒に生きてきた。それがなくなるってことは、自分の中の誇りがなくなるってことだよ』って」
中澤「芸人の妻じゃん。その話、初めて聞いた」
松本「それがけっこう堪えたのはある。そのあと部屋で、ラモーンズとクラッシュのレコード、爆音で聴いて、すぐナカザに電話したの。中学生の頃の、あの気持ちでバンドやれるなら、まだやりたい、って」
中澤「俺はちょうど家で晩酌してたんだよね(笑)。丈、辞めるか。素生もバンド辞めるって言ってたな……事務所も辞めるか……さてどうするか、って。そしたら電話が来て」
松本「ナカザ、超冷静なんですよ。僕、けっこうな熱量で話してんのに『お前がそう思うなら、バンドやったほうがいいよ』って」
中澤「その次の日、下北の喫茶店で3人で話したよね。素生と俺は、やりたいと思ってても、お金のこととか何もわからないから不安なわけですよ。このまま事務所辞めて、どうやればいいのかもわからない。そしたら石原が『大丈夫だよ』って。あの時ほど頼もしく見えたことはない(笑)」
石原「マネージャーだったから、なんとなくお金の流れはわかるわけですよ。事務所に入れてたお金、3人でやるなら必要ないお金、そういうのを計算したら、ひとりひとりにこれくらい入ることになるから……なんとかやっていけんじゃね?って」
中澤「納得できないことをやらなくて済むなら、ゴーイングを続けたかったしね。俺、この頃、ナカザタロウ(カトウタロウとのユニット)で活動を始めてて。ゴーイングよりもさらにミニマムな活動ですけど、そっちは何のストレスもないんです。タロウさんと俺がいいと思える楽曲作って、ライヴやって、物販売って、その日の売り上げを折半して帰ってくる。こんなシンプルなことがなんでゴーイングじゃできないのかなって、ずっと思ってた。だからバンドは継続することにしたけど、やりたくない音楽、活動は絶対やんねえ!って気持ちがめちゃくちゃ強かった」