『音楽と人』の編集部員がリレー形式で、自由に発信していくコーナー。エッセイ、コラム、オモシロ企画など、編集部スタッフが日々感じたもの、見たものなどを、それぞれの視点でお届けしていきます。今回は20年ぶりにある漫画に再会した編集者が、そこで感じた思いを綴ります。
誰も覚えてないと思うが、前回の編集部通信で私は、「年明けに占いをしたら占い師に『今年はとにかく体調に気をつけてください』と言われた」と綴っていた。ぶっちゃけ半信半疑でいたが、4月頭に人生初の骨折を経験した。右足の親指に結構な高さから重たいものを落としてしまい、第一関節の縦と横にヒビが入り、骨が欠ける一歩手前だったのだ。
あの時の痛さったらそりゃあもう……筆舌に尽くしがたい、とはこういうことを言うのだろう。本当に痛い時、人は声が出ないことを初めて知った。しかもその日は日曜日。さらに夕方だったので、病院はほとんどやってない。というか、歩く気力すらない。なのでそのまま一晩過ごしたが、親指がドンドコドンドコ脈を打つような感じで、痛みが治まることも無く、「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い」と口に出していないとどうにかなりそうだった。そんな状態では当然眠れるはずもなく、翌日ボロボロな状態で病院に行ったところ、「2ヵ月後にはだいぶ良くなって、完治はだいたい半年後くらいじゃないかなぁ」と診断された……長くない? 骨折ってそんなものなの? 今年から運動を始めようと思っていたのに(実は、映画に出てくるような本格アクションが体験できる教室に通おうと計画していた)。ああ、骨折ってもどかしい。飲み薬があるわけでもなく、安静にしていることが完治への近道なので、ただジッとしているしかない。しかし、生まれてこの方大きな怪我をしたことが無かったので、そう考えるとあの占いは当たってたのかなぁ……。
いや、そんなことはどうでもいい。私は占いの的中率を力説したいのではない。今回は好きな漫画の話がしたい。正確に言うと、好きだった漫画。過去形だったけれど、最近になってその素晴らしさに改めて魅了されたのだ。再会のきっかけは、今年のゴールデンウイーク。緊急事態宣言が発令されていたし、骨折を少しでも早く治したくて、不要な外出は控えたかった。せっかくの機会なので積読の山を消化しようかなと思っていたが、よりにもよって家には暗い内容の本しか無かった。大好きな地元に帰省もできず、骨折で気分が沈んでいたので、何か心がパーッと明るくなるような漫画が読みたい……でも家には暗い内容の本しか無い……そんな時に助けてくれたのが、タブレット&スマホという文明の利器だった。これならすぐに電子書籍で漫画が読める! そう思った私は早速シーモアにアクセスし、何を読もうかな~とさまざまな作品を漁った結果、『こっちむいて!みい子』(以下みい子)という少女漫画にたどり着いた。昔は毎日のように眺めていた懐かしい絵柄に、思わず胸が高鳴った。
みい子は少女漫画誌『ちゃお』で連載中で、小学5年生の山田みい子という主人公の日常を描いたコメディ漫画……と認識していたのに、みい子たちはいつの間にか中学生になっていた。あのみい子が中学生!? そんなに驚くことかい、と思う人がいるかもしれないが、驚きますよ。だって、私が愛読していた期間(たぶん2001年までの4、5年間くらい)は紛れもなく小学5年生だったし、この先もみい子は永遠の小学5年生だと思っていた。それが、2016年には小学6年生に進級し、2020年には中学校に入学していたそうだ。いきなり最新巻から読むのはどうかと思ったが、みい子の中学生ライフが読みたい気持ちは押さえられず、すぐさま最新巻とベストセレクション的な傑作集を複数購入した。なぜ通常のコミックスではなく傑作集を選んだのかというと、通常タイプは、ゆくゆくは電子書籍でなく紙で全巻集めたいと思ったからだ。
30歳になった今読んでみても、やっぱりみい子は面白かった。むしろ、この作品や作者・おのえりこさんのすごさは今のほうが実感できた。何がすごいのかというと、〈コメディ漫画〉と言ってもただ単に笑える話だけで構成されているわけではないのだ。私はまだ読めていないが、震災で福島から自主避難した女の子が転校してくるエピソードもあるらしい。そういえば、みい子は昔から真面目なテーマ(原爆、性教育など)を取り入れたエピソードがあったし、みい子を通じて初めて知ることも、考えるようになったこともいっぱいあったなぁと思い出が蘇ってきた。それこそ、傑作集で裏話として書かれていてグッときたのが、〈赤ちゃんはどうやってできるか?〉をテーマにした話を掲載したところ、『ちゃお』読者の親からクレームが殺到したというものだ。〈そんなにネタがないならレディースコミックにでも行け!〉などキツい言葉を浴びせられたそうだが、それでもコミックス収録時にはお蔵入りにするのではなく、その抗議への答えとして新たなやりとりを描き足しながらも、性について伝えることを全うした、そんなおの先生の漫画家としての矜持には痺れた。これ以外にも、私が笑ったり感動する裏側で、計り知れない苦労があったのだと思う。大人になり、編集の仕事をしている立場だからこそ、生みの苦しみを乗り越えながらも、おの先生が30年以上連載を続けられていることには尊敬の念しかない。
あと、昔みい子を読んでいた時は何も思わなかったが、大人になった私は〈まりちゃん〉にやたらイライラするようになっていた。まりちゃんとはみい子の友達で、よく言えば明るくて裏表のない性格だが、無神経な発言を連発するし、自己中だなぁと思う振る舞いが多い。本人に一切悪気はないが、自分がひとりぼっちになるのが嫌だからと、違う中学に進学しようとしたユッコ(みい子とまりちゃんの友達。いつも3人で行動している)に対して「同じ中学に行こう!」と力説したり、バスケ部に入りたいみい子を強引に漫画研究部に誘ったシーンには、正直引いた。まりちゃんの気持ちもわからなくはないが……。しかし、なんで私はまりちゃんに対してこんなにも嫌悪感を抱くようになってしまったのだろう。思い当たる節があるとすれば、当時と比べて自分に空気を読む術が身についたからではないかと思う。
自分が何気なく放った一言で相手を不快にさせたくないし、逆に何気ない一言で腹が立ったり悲しくなった経験があったからこそ、言葉を選んだり、言葉に敏感になる瞬間が大人になるにつれて増えていったように思う。そういう配慮は人として当然。でも、自由奔放なまりちゃんを見ていると、言葉に対して過剰にアンテナを張っている自分はどうなのだろうと思ったし、どちらかに偏るのではなく、ニュートラルでいるべきだよなぁと思えた。ちょっと癪だけれど(笑)、まりちゃんによって、知らず知らずのうちに自分が失っていたものに気づかされたし、ちょっとだけ自分の神経質な部分を削ぎ落してもらえたような感覚になった。それに、私はこの漫画のこういうところ――ぱっと見、可愛らしいドタバタコメディに見えて、人間関係だったり日常のリアルが凝縮されていて、ただ笑えるだけじゃなくて新たな気づきを与えてくれるところが好きだったんだと、20年越しにようやく気づくことができた。なんか、この年になってようやくこの漫画の好きなところをちゃんと言語化できた気がする。何より、読み終えたあと晴れやかな気分にさせてくれるのがいい。こんな喩えは微妙かもしれないが、なんか、みい子という漫画はスーパー銭湯みたいだと思った。庶民的でいつでも立ち寄れて、お風呂や岩盤浴で汗を流してリラックスさせてくれて、レストランで美味しいものを食べて心身共に満たされる。そんなふうに、デトックスと吸収を同時にできる、癒し的な存在だなと感じた。
最後に……みい子を読んでいると、ものすごくドーナツが食べたくなる。もはやこの作品を彩る上で欠かせない要素の一つなんじゃないかと思うくらい、ドーナツ屋さんやドーナツが至るところに出てくる。ドーナツを買うごとにもらえるポイントカードを貯めて、ランチボックスをもらおうと奮闘する回だったり(この話は特に好き)、みい子の妹・ももが生まれる時に、病院の廊下でずっとみい子と一緒に待っていてくれた、たっぺいくん(みい子の友達……?)と一息つきに行った時も傍にドーナツがあった。実はこの原稿を書いている今は校了期間の真っただ中で、食事も家の隣のコンビニで調達しているような毎日だ。無事に校了したら、ゆっくりドーナツを食べながらみい子を読みたいな……。それでもって、ドーナツによる脂肪だけでなく、この漫画を通じてさまざまなことを吸収したい。きっと、これからも私は年を重ねるごとに、違った角度からこの作品の面白さに気づくのだろうし、失ったものや逆に得たものにも気づかされるのだと思う。これからも長く愛していきたい、自分にとって大切な作品だ。
文=宇佐美裕世