今音楽辞めて、普通の仕事についても、絶対後悔すると思うんだよね。ああ、あの時バンド続けておけばよかった、って
ロックバンドへのシンプルな憧れを形にしようとしているのはよくわかりました。でもあえて問いかけますけど、じゃあPEALOUTやればいいじゃん!って思いますよ。
「あははは。そうなる気持ちはわかります。こないだ高橋(高橋浩司/PEALOUTドラム)から、解散から15年目の今年、QUEでイベントやる話がきたんですけど、申し訳ないけど俺は、もう3人でやるつもりはないんですよね。別に高橋と岡崎(岡崎善郎/PEALOUTギター)が嫌いだとかじゃなくて、あんなに美しい解散をしたバンドって、俺の中ではあんまりない気がしてるんですよ」
そうでしたね。
「そもそも11年間で自分たちのやりたいこと全部やって、8枚のアルバム作って、ぶつかるだけぶつかって、もう無理だねって解散を決めた時点で、ライヴはしたくなかったんですよ。でも2人の、最後にツアーをしたいって気持ちもわかったので、だったら完璧なものにしようと思って、発表から7月のラストライヴまでの間、ワンマンツアーで全国廻って、自主企画もやって、アコースティック・ライヴもやる。できるだけ持ち曲を演り尽くせるようにセットリストを毎回変えて。最後のワンマンの渋谷クラブクアトロは4時間20分。そして最後の最後のご褒美でフジロック。あれ以上のことをやるのは、今は絶対無理だと思って」
演り尽くした、燃え尽きた感はありました。
「何より今、my funny hitchhikerで新しくスリーピースの衝動が表現できてるから、あえて今、そこに戻るつもりはないんですよね。自分にとってPEALOUTは本当に大切なバンドで、ずっと心の深いところにあるんだけど、そこには戻れないっていうか、戻らないように必死なんです。ある意味、聖域なんですよ。僕がそこに触れちゃいけないな、と思ってて」
3人が本気で向き合えばいいじゃないですか。
「うーん、どうだろう。ロックバンドが思い出のためにやるのは、一番カッコ悪い気がしちゃうんですよ。終わったあの日の続きを始めるのは、3人がそれぐらいのテンションにならないと難しいかな。たとえば再結成した10年後、それをカッコいいと思えるかどうかっていったら、思えない気がするんだよね」
近藤さん、生き方は下手ですけど、音楽に対して本当に真面目に向き合ってますよね。
「はははは、生き方下手なのは否定できない(笑)」
なんでそこまで、音楽やバンドに対して諦めようとしないでいられるんですか? PEALOUT解散から15年。事務所にも属さず、ずっとひとりで地道に活動続けて。新作ができるたびに、手書きのメッセージと一緒に音源送ってくるミュージシャン、なかなかいませんよ。それを54歳の今も続けてるなんて。
「自分でも思います(笑)。よくやれてますよね………ちょっと話ずれるんですけど、最近コロナで何も活動できなくて、時間はいっぱいあるじゃないですか。じゃあこのタイミングで、ビデオテープやMDに入ってて、いつかデータ化しようと思ってできてなかったバンドの映像や音源を、整理しようと思ったんですよ。そしたら30年前のライヴのビデオテープが出てきて。まだ学生の頃ですよ。バンド組んで、屋根裏やラ・ママの昼の部には出たけど、夜の部にはどうしても受からなくて。それで諦めて、就職して」
東芝EMI(現ユニバーサル ミュージック)のディレクターになったんですよね。
「そう。で、そのビデオ、学生最後のライヴだったんですよ。EMIに就職する前の月。それ観てて、いろいろ思い返したんですよ。〈30年前、俺、これがバンドやる最後だなと思ってやってたんだよな。でも今まだやってるんだよな〉って。そう思うと、さっき言ってくれましたけど、諦めるわけにはいかないんですよ。あの時に諦めたことが今できてるのに」
今でも憶えてますけど、僕が前の会社に入って、当時ミュージック・ライフの編集長の家に呑みに行ったら、近藤さんがいたんですよ。
「そうそう。あれ、なんだったんだっけ?」
その編集長がルースターズと仲よくて、僕がルースターズ大好きだったから、EMIのプロモーターが引き合わせようとしたんですよ。そこで、まだバンドを諦めきれないって話をしたような記憶があります。
「そうだ。そのあと、やっぱり夢捨てきれなくて、28歳でEMI辞めたんだ。30歳になるまでの2年間。最後だと思って死にものぐるいでやってみよう、って。2年間やってダメだったら、また就職しようと思って。そしたらPEALOUTでレコード出して、デビューすることができた。それを考えたらさ、諦められるはずがないじゃない?」
やっとつかんだ夢ですもんね。
「1回諦めたんだもん。会社入って、ずっとどこかに引っかかってたものが、辞めて、バンド始めて、本当にスッキリしたの。安定した給料がなくても、生活レベル下がっても、どうでもよかった。バンドやれる喜び、それだけでよかった。それと同じで、今音楽辞めて、普通の仕事について、今よりいいお金が手に入ったとしても、絶対後悔すると思うんだよね。ああ、あの時バンド続けておけばよかった、って。そう思いたくないから、メーカーも事務所もないけど、満足してるんだよね。CD完成して、ひとりひとりの住所書いて、メッセージも書いて送る。そこまでやりきっちゃいたいんだよね」
ちゃんと音楽でメシ食えてます?
「なんとかね。今回コロナでいろいろ大変だったけど……でもひとつ、とてもありがたいことがあって。僕はソロのライヴを年間120本のペースでやってるんですけど……」
さらっと言いましたけど、年間3分の1をソロでライヴやって、バンドはそれと別なんだから、すさまじいですよ!
「で、3年前ぐらいから、ソロのライヴは毎回、客席の後ろで音を録ってるんです。それを毎回ライヴが終わったあと、ウェブにアップしてたんですよ。最初はいいテイクだけ選んでたけど、2年ぐらい前から、それじゃ潔くないなと思って、MCも含め、最初から最後まで修正なしでアップして、フリーダウンロードできるようにして。それは誰もやってないなって思って」
いないですね(笑)。
「そしたらコロナで3月からライヴできなくなって、4月になっても先が見えない。僕のライヴはカフェやバーが多いから、キャンセル代の話をしても、どの会場も『飲食で頑張るんで気にしないで』って言ってくれるんですよ。でもこっちは申し訳ない気持ちが拭えなくて。だから4月の半ばから、自分がキャンセルしたライヴの日に、自宅でライヴをすることにしたんです。その日の会場をイメージしてセットリスト組んで、そのライヴをダウンロード販売して、売上を会場と折半したんですけど、毎回、その売上がありがたかったですね。なんか、ずっとフリーダウンロードでやってきたことが無駄じゃなかったんだな、と思えたし、リアクションがあったのが嬉しくてね」
今54歳の近藤さんが、決して楽ではないのに音楽ずっと続けるのも、ここに来てやれてなかったスタイルでバンド始めるのも、諦めたあの時の気持ちを忘れたくないから、そして自分の音楽が、誰かと繋がっていることを感じていられるから、ということがよくわかりました。
「だってチャンスもらったんだから。岡崎と高橋と出会ったことも含めて、何も無駄にしたくないんですよ。30年経ってまだ唄えてるなんて、ほんとにありがたいことだし」
そうですね。
「少しでも長く続けていたいから」
よくわかりました。でもどこかに、バンド、というものへの憧れとこだわりが強く残ってることもよくわかりました。
「だからこの歳でこういうバンド始めたわけですからね。今はとりあえずこのバンドをやりきりたい。時間がないから、54歳の最速で。PEALOUT? 70歳ぐらいになって、3人生きてたら考えましょうか(笑)。その時にしかできないスタイルで(笑)」
文=金光裕史
FIRST ALBUM『Two muffs beat as one』
2020.09.02 RELEASE
01 風と花
02 Music
03 HITOTOWA
04 OK
05 Love is life
06 本能
07 青すぎる空
08 スクリームドリーマー
09 荒野行長距離列車
10 The Hitchhiker
11 My sunset
12 スープはいかが?
近藤智洋 オフィシャルサイト http://kondotomohiro.com/
my funny hitchhiker オフィシャルサイト http://www.myfunnyhitchhiker.com/