ついにウサギとのご対面。トム、は波多野が飼っているウサギの名前だ。年齢は2歳と数ヵ月で、香川へ移住したと同時に飼い始めたらしい。トムが小屋から飛び出す前に、波多野は部屋の中央にいそいそと折りたたみ式の囲いを立て始める。部屋の電気コードを噛みちぎってしまうのを防ぐためだ。恐る恐る出てきたウサギに、「トム、トム」と優しく声をかける波多野。想像していた以上にトムを溺愛しているようだ。しかしトムは犬や猫のように飼い主に甘える様子もなく、むしろ自身のパーソナルスペースを死守しつつも飼い主と付かず離れずの距離感で懐いている。「この近すぎない距離が僕には心地いいんですよ」。ベタベタに飼い主に甘える姿を想像していたこちらの物足りなさを感じとったのか、波多野は誇らしげにそう言ってみせる。「いいけど、ウサギがもっと飼い主と近づくように工夫してよ」と言うと、彼は餌付けというごくごく普通の手段を用いてツーショットを実現させた。ペットと触れ合う時に必ず赤ちゃん言葉になってしまう人がいるけど、もちろん彼はそういうタイプでなかった(本当はわからないけど)。どちらかというとトムは寡黙な友人との共同生活者、といった感じだ。もう少し彼に懐いてもいいような気がしたが。
続いて彼のスタジオも見せてもらうことになった。住居の一角をスタジオ仕様に設えたその部屋は、無機質な機材や無数の本に囲まれた暗い空間だった。さっきまでウサギと戯れていた部屋が日常だとしたら、こっちは完全に非日常の世界。きっと彼はここでひたすら自分の内壁を削りだすことに没頭し、音楽という容れ物の中に物語を立ち上げているのだろう。彼の生活と音楽がここで接合する厳かな場所だった。
夜は高松の繁華街に繰り出し、波多野オススメの居酒屋で日本酒を煽る。バンドのこと、雑誌のこと、音楽のこと、そして共通の知人のこと。とにかくいろんな話を2人でしながらしたたかに酔った。どれも特別でもなんでもない、音楽が好きな者同士の普通の会話だったと思う(半分ぐらいしか記憶にない)。最後に彼は自宅へ帰る前に、ホテルまで東京から来た酔っ払いを送り届けてくれた。本当は彼の家に泊まりたかったが、そこはトムと彼との絶妙な距離感を見習うべきだと自重した。翌朝は波多野に教えてもらったうどん屋に朝から突撃し、うどん県の魅力をさらに堪能してから帰京した。後日聞いた話だと、翌朝の彼はひどい二日酔いで丸1日無駄にしたという。彼もこの奇妙な取材を楽しんでくれたみたいだ。
波多野は香川で特別でもなんでもない、ごく普通の一般市民としての暮らしをしていた。国産の小型車を慎重に操り、素朴なうどんを美味そうに啜り、東京からの知人を酒でもてなす。東京を拠点にしていた時よりも、ずっと〈生活そのもの〉が彼の中心にあるのは確かで、穏やかで静かな暮らしを、丁寧に日々紡いでいる様子だった。それが移住の目的ではなかったにせよ、結果的に音楽の純度を保つために〈生活〉というものが必要だった。そういうことなんだと思う。
「ただ僕は普通の生活をしたいだけ。大きなことは何も望んでいないのに――」
ウサギの頭を撫でながら、彼がそう言い放った言葉が今でも心に残っている。ちゃんとした生活、または幸せな暮らし。それは誠実さだとか思いやりだとか優しさといった、人間としてごく当たり前のルール以前の前提のもとに成り立つものだ。でも、それが今の世の中において当たり前ではなくなっている。ごくごく普通の、人として当たり前に享受すべきものなのに。People In The Boxの最新作『Tabula Rasa』は、そんな普遍的な彼の思いによって生まれた作品である。波多野は市井の人として、世の中に対する当たり前の感情を音楽にした。それは聴いた人たちにとって時限装置のように機能するような仕組みになっていることが、今回の旅でわかったことだった。そして、世の中がこれ以上悪くならない方向へ向かうための音楽として、厳然とした風格をたたえていることも。
NEW ALBUM『Tabula Rasa』
NOW ON SALE
01 装置
02 いきている
03 風景を一瞬で変える方法
04 忘れる音楽
05 ミネルヴァ
06 2121
07 懐胎した犬のブルース
08 まなざし
People In The Box オフィシャルHP https://peopleinthebox.com/