世界と相容れない自分がいるんだから、世界は自分で作らなきゃいけないんですよ
でもそれだけを、ここまで腰据えて還暦まで唄い続けている姿は、殉じてるというか、覚悟を決めてるように思えます。
「覚悟っていうか、スターリンやり出した時から、歌以外の仕事は絶対にしない、って決めたんですよ。だから借金背負っても歌で食う。レコードもあるけど、基本はライヴでメシ食うんだ、って考えが僕の中にあって。プロは歌で食っていくんだから、他の仕事やるのはプロじゃねえ、と。誰かを養うためとか、家庭があるとか、それが大事ならそのために金を稼げばいい。それも立派な生き方ですよ。でも唄っていくって決めたんだから、家庭も必要ないし、有名になる必要もない。他に何もいらないんです。ひとりですからね。他に気兼ねする必要もない。だからひとりでギター持って、とにかくライヴで唄いました。1回のギャラが少なかったら、本数増やせばいいんだ、ってどんどん増やして」
とにかくライヴありき、と。
「今、年間で150から170本やってますから。それは自信にもなりますし、今や2ヵ月もライヴやらなかったら、声がダメになっちゃいます」
自分がこうやって還暦を迎えても、まだ唄ってると思ってらっしゃいましたか。
「考えてなかったですよ。でも迷いはないですね。体が許す限りずっとライヴは続けるし。これがスターリン辞めた時点で唄ってなかったら、絶対こんなアルバムは出てこなかったと思う。間違ってるとか間違ってないとかじゃなくて、これしかなかったんだな、って感じです」
1月にはスターリンZでライヴを行うことが決まってますけど。
「はい。スターリンZは百々くん(百々和宏/モーサム・トーンベンダー)と達也(中村達也/LOSALOIS)とKenKen(RIZE)で。これはトリビュート発売記念と、いわゆるスターリン30周年記念としてやります。それ以降スターリンは……70ではもう出られないからね、さすがに(笑)」
でも今、そういう形でスターリンをやるのはどんな気持ちなんでしょうか。
「いやぁ、どんな気持ちでしょうね。でもあの頃は、バンドやって音を出して歌を唄うって行為よりも、素っ裸になってうわーってやっちゃったり、臓物投げたりとか、スキャンダラスなイメージでとらえられたりとか、単に唄って演奏する以上のいろんな意味合いを全部引っくるめてましたからね。あの当時は、別に音楽に限らず、映画も漫画も、みんなある種のパンク的なものがいっぱいありましたよ」
そうですね。石井聰互監督の映画とか。
「とにかく表現そのものが、何かに迎合しようとしてない。これだったら売れるんじゃないか、認められるんじゃないか、じゃなくて、何か新しいものをやろう!という意識があったし、いろんな可能性を探ってたんだと思うんです、無意識に。だからひょっとしたら、過激なライヴって何なんだ?っていう問いかけが、あの時代にいろいろ出てきて。逆に過激という意味そのものが問い直されたところがありましたね。ロック、パンク、って何が過激なんだ? 危険なんだ? どこまでやっていいんだ?って。それが結局、ラヴ&ピースで終わっていっちゃったところがあって」
そうですね。
「ラヴ&ピースは別にいいんですよ。でもそれは、その裏側に絶望や何やらがはりついていてこそ見えるものじゃないですか。今はもう、それだけが一人歩きしてますよね。だから今、両方を見せるのって、肉体で表現するしかないと思うんです。生っていうか、アナログっていうか。そこにこだわってるところはあります。ライヴもそうでしょ。映像でライヴ観たって、いくら生中継だからって、現場でのライヴの感じは絶対伝わらないじゃないですか。本当のものを観たい、味わいたいんだったら、やっぱり生なんだぞって。別に音楽に限らず、旅もそうなんですけど、ほんとに行ってみなきゃわかんない。映像で見たってわからない」
体験したつもり、にみんななっていきますからね。
「だから僕たち唄い手は、肉体を晒していくしかないんですよ。だって、もともとはそれをコピーしてるわけですからね。何もないところからコピーも何も始まらないでしょう。そこにこだわらなかったら、たぶんあっという間に流されて消えていきます。今やってる人でも、ライヴを続けてきた人だけは残ってますよね。僕がこの年まで残ってるのも、それを続けてきたからですよ」
老い、というのは怖いものですか?
「いや。楽しいんですよ、基本的に。でも肉体はやっぱり……」
衰えていきますよね。
「衰えていくし、壊れていく。それは怖いです。でも、それ以外のところはどんどん楽しくなっていくなと僕は感じてるんです。余計なしがらみとか、現実にぶつかって、うわ金がねぇなとか、そういう問題はどんどんどうでも良くなって、楽になってきますよね。欲みたいなものもどんどんなくなってくる。ただ、肉体だけがちょっと怖いだけで、歳取るのは楽しいですよ。だから40代は最高に楽しかったですよ。肉体的な心配もないし。普通逆なんですよね、40代がいちばんね」
重荷を背負われる時ですからね。
「そうそう。子供が育ってきて、現実を背負って。で、だんだんおっさんになっていくし、いろんなものの板挟みになって(笑)」
僕42歳ですけど、まさにそうです!
「ま、みんな50歳過ぎたら諦めつくんですけどね(笑)。僕、50の時に〈21世紀のニューじじい〉っていう歌を作ったんですけど、50から第二の人生だぞって。1回40代で人生終わって、まだ体が元気なうちに、次の人生って考えたほうがいいぞ、と。60になっちゃうと、なんか新しいことやろうと思っても何も出来ないんですよ。50だとある意味……歳取ってくることもわかってるから、じゃあこれから何やろうかっていうのも考えつくと思うんですよね。実際、僕がアコースティック始めたのが40の頭からなんですけども、たぶん薄々感じてたんですよね(笑)。このままいっても……たぶん、悲惨な末路になるだろうな、って。野垂れ死ぬのは別にいいんですけど、やっぱり唄い続けたいと思ってたから。だからその時の体や精神的なものも引っくるめて、自分がいちばんやりたいことがやれる環境を自分で探し始めて、見つけたんですよね、たぶん。さっきお話したディスコミュニケーションじゃないですけど、世界と相容れない自分がいるんだから、世界は自分で作らなきゃいけないんですよ」
そうですよね。
「そうやってディスコミュニケーションを叫んでた僕が、唄い続けてたらこうやってトリビュート・アルバムを作ってもらってた。それって凄いじゃないですか」
ディスコミュニケーションと真正面から向き合ってきたからこそ生まれた真実というか。
「そう。だからとても嬉しいんですよ」
文=金光裕史
撮影=新保勇樹