これまで多くのミュージシャンを取材してきた。
編集長になって20年。ずっと取材を続けてきた人もいる。しかし会わなくなってしまう人が遥かに多い。昔、毎月のように会って取材して、ライヴに行って、プライベートを深く知るようになった人ですら、時と共に疎遠になっていく。
50歳を過ぎたあたりから、無性にその人たちに逢いたくなった。売れた売れない関係なく、編集者としての自分に何らかの影響を与えた人と、今、話をしたかった。
今回はL⇔Rの黒沢秀樹に会いに行った。兄でありL⇔Rのメインコンポーザーであった黒沢健一は、脳腫瘍で5年前に亡くなっている。L⇔Rが30周年のアニバーサリーを迎える中、今彼が思うことを聞きたかった。
( これは『音楽と人』12月号に掲載された記事です)
会うのはいつ以来だろう。
三軒茶屋の小さなバーで偶然会ったのが最後だから、確実に10年は過ぎていた。でもあまり変わらない風貌と話し方。あっという間に時間という距離は短くなっていった。
黒沢秀樹。L⇔Rのギタリスト。バンドの活動休止後は、ソロとしてプロデューサーとして、サポートとして、各方面で活躍。今ももちろん音楽活動を続けているが、私生活では女優の佐藤みゆきと結婚。今は3歳の男の子の子育てに忙しい。彼がウェブマガジン『ホテル暴風雨』で連載中のブログ「LITTLE CHILD だいじょうぶ、父さんも生まれたて」にそのあたりは詳しい。佐藤が連続テレビ小説『おかえりモネ』やグローブ座での舞台「葵上・弱法師」に出演中ということもあって多忙な今、彼はある意味、ジョン・レノンのハウスハズバンド状態。時間がないことをボヤきながらも、その成長を見守る今は充実しているように見える。
「もう今ひとりじゃないですからね。しかし子供を育てることがこんなに大変とは(笑)。ぶっちゃけ、今まで自分のために使えてた時間がほとんど奪われてしまう。だから今、仕事……僕の場合は音楽ですけど、そっちに費やす時間が物理的になくて(笑)。どうやって音楽に関わっていくか、一からベースを作り直しているところですね。ありがたいことに、少なからず待っててくれるお客さんがいることが、今はいちばん支えになってます」
L⇔Rは11月25日でデビュー30周年のアニバーサリー・イヤーを迎える。彼らとは当時所属していた雑誌で、デビュー時からほぼ毎月取材をしていた。あの頃の話は尽きない。特に出会った頃の兄、フロントマン黒沢健一の印象は強烈だった。初めての取材の際、六本木のスタジオで「金光さんは他にどんなバンド担当してるんですか?」と聞いてきた彼。僕が何も考えず「今はLUNA SEAとZi:KILL。あとはBAKUですね」と話すと、彼はあからさまに不安そうな表情を浮かべ(笑)、そして次の月の取材後、僕をレコード会社の給湯室に手招きすると、「これ、どれも素晴らしい作品だから聴いてください」と紙袋を渡してきた。その中には、ラズベリーズ、フォー・フレッシュメン、デイヴ・クラーク・ファイブ、ディオン、フランキー・ヴァリのレコードと、なぜこのアルバムが素晴らしいのかを書き綴ったノート。またひと月後に会うと「どうだった……でしょ! いいですよね! 今日はね。これ持ってきました」とまた紙袋(笑)。それ以来、毎月の取材が終わると、しばらく黒沢健一音楽セミナーが開講された。あれは、僕らのことをちゃんと理解してほしい、という過剰な気持ちの表れだったんだろう……と思うが、今考えてもかなりイカれている(笑)。
その黒沢健一は、今から5年前、2016年12月に脳腫瘍のためこの世を去った。L⇔Rが完全な形で復活することは、もう、ない。
「あの頃はキツかったですね。兄貴の病気が発覚して、どんどん状況が悪くなっていって。でもそのことは、ギリギリまで公表しないことになっていて。それはマネジメントとして正しい判断なんだと思います。でも俺は、リリースやライヴがあるじゃないですか。同じ世界で仕事をしてますから、どうしたってその話になるんですよ。『最近お兄ちゃん何してるの?』って。それがほんとしんどくて。ぶっちゃけ一時期、自分が表に出るような仕事はあまりやらなくなってましたね。〈兄貴がそういう状況だったのに、弟は何やってたんだ〉って思われると、本当嫌だったから」
健一の病名が公になったのが10月。すでにその1年前には脳腫瘍と診断されており、発表から2ヵ月後、死去。享年48歳。若すぎる死だった。そして黒沢秀樹にとっては、尊敬するミュージシャンであると同時に兄。この事実への葛藤があることは、L⇔Rを取材していた頃から、なんとなく気づいていた。
「アーティストとして考えると、兄貴には逆さになっても勝てないから。ほんとに天才なんです。側で見ててもそう思わされる、ものすごい人でしたよ。おんなじ兄弟だけど、生まれ持っての才能でこんなに差があるんだって、実感させられることだらけなんです。だって16歳になった頃だったかな。兄貴がギター持ち始めて、新しいコードを1つ覚えたんですよ。それを俺の目の前で弾いてたんだけど、みるみるうちにそれが曲になっていったんです。あれは魔法でした(笑)。今でも憶えてる。どうしてこんなこと考えつくんだろう、って」
そう、天才と呼んでしかるべき人だった。でも天才は、それをなかなか共有できない。撮影スタジオで準備をしていると、衣装に着替えた健一が僕のほうに近づいてきて「なんかね、イルカが空を飛んで鳴いてるイメージなんですけど、わかります?」と言い出し、カメラマンと目を見合わせることもあった。
「それ、レコーディングでも同じですよ。エンジニアにそういうイメージで伝えるから、プロデューサーの岡井大二さんに『秀樹、お前翻訳しろ!』ってよく言われてました(笑)。確かに俺は言ってることがわかるんですよ。だからエンジニアに『この勢いあるところをちょっと削って、後ろを2段ぐらい上げてみてください』ってお願いしてみたんです。そこを修正して改めて聴くと『そうそう、これが真実の音だよ』ってご満悦。なんだよ、真実の音って(笑)。そんなことはよくありましたね」
ミュージシャンとして天才的な兄。もともとレコーディングエンジニア志望で、バランス感覚を持っていた弟。その関係がL⇔Rの原型になっていく。上京した健一は、バンド活動しながら、いわゆる職業作曲家として生計を立てていくが、バンドはなかなかままならない状態。そんな中、秀樹が高校生の頃、東京に呼び出された。
「その頃の兄貴は、俺にとって憧れの存在ですよ。そんな兄貴からいきなり『東京に来い』って呼び出されて。行ったら信濃町にあったソニーの大きなスタジオに連れて行かれて『ここのギター弾け』って言われて。驚きでしたよ。で、僕は兄貴とバンドを組むんですけど、まあうまくいかなくて。デモをいろいろ作っても『古い』『今どきこんなの流行らない』『マニアックすぎる』と言われて散々。バンドもメンバーが入っては辞めて、デビューもできないまま兄弟2人が残っちゃった(笑)。なのに兄貴の作曲の仕事は忙しくて、曲の締切に追われてて、やりたくもない音楽にめちゃくちゃ煮詰まってる。その頃20歳前後でしたけど、もう人生終わったな、ってふたりで絶望してたんですよ。その時大二さんから連絡が来たんですよね」
ファンにはよく知られた話だ。最後にポール・マッカートニーの東京ドームを記念に観て、田舎に兄弟で帰ろう、と思っていた矢先の連絡。「一緒にバンドやろうぜ」と強く誘いをかけていた木下裕晴がベースに加わり、レコーディングに入る。デビューのきっかけをそこでつかんだわけだが、当時の彼らがやりたいことを全部乗せしたようなサウンドは、とても20代前半のミュージシャンがやっているとは思えない、とんでもないサウンドメイクだった。
「デビュー直前に、もう田舎に帰るか……と思いながら、やけっぱちになって作ったデモは、デビュー・アルバムの『L』やセカンドの『Lefty in the Right』に入ってますけど、あれは僕らにとって、怒りや憎しみをこめたものです(笑)。さっきも話したように、マニアックだ、こんなの流行るわけがないってずっと言われ続けて来たから、じゃあ最後にそれを徹底的にやったるわ!って気持ちですよ。あの頃はまだ珍しかったループ、減速再生、徹底したウォール・オブ・サウンド。やりたかったこと全部乗せだから、セカンドぐらいまでの熱量はほんと普通じゃなかった。何年か前、改めて聴く機会があったんですけど、やっぱり当時の僕たち、頭おかしいですよ(笑)。今はプロトゥールスがあるから、やろうと思えばできちゃうでしょうけど、当時はPCなんてないから、1曲の中に5曲分ぐらいの作業量と演奏データが入ってる。だから当時のシーンでは、かなり異質だったことは間違いない(笑)。よくミスチルやスピッツと並べて語られてたけど、まったく別物ですよ。あんな穏やかなもんじゃなかった。気が触れてます。だから当時、いっぱい取材受けてましたけど、アイドル誌の取材とかで、好きな食べ物とか聞かれて(笑)。こんな取材受けていいのかなって、みんな思ってました。かなりイカれたバンドだって自覚してたので (笑)」