『音楽と人』の編集部員がリレー形式で、自由に発信していくコーナー。エッセイ、コラム、オモシロ企画など、編集部スタッフが日々感じたもの、見たものなどを、それぞれの視点でお届けしていきます。今回は毎月原稿を執筆する編集者が、日常でのある行動をとおして気づいた、言葉で表す難しさについて綴ります。
原稿を書くことが仕事の一部であるからして、常にいろんな言葉をキャッチするアンテナはそれなりに張ってるつもりではあるものの、実生活で使わない・使い慣れない・意味を正確に理解していない言葉はなるべく原稿にも用いないようにしている。たとえそれがよく耳にする単語であったとしても、自分にとってリアリティが伴わない場合、慎重に向き合う必要があると思っているのだ。とは言うものの文章を書く時に「使いたい」と思う好きな単語というのはいくつかあって、それはまぁ自分が影響を受けた小説の一節とか映画のワンシーンとか歌詞のフレーズという単純なものだったりするんだけど、そういう「お気に入りワード」を自分でも使うことで自己満足に浸りたい、という欲求もある。あ、今回はそういう話をしたいんじゃなかった。自分にとっては日常生活で馴染みのある行為なのに、それを表す言葉にどうしてもリアリティを感じられない、というお話です。
その言葉との出会いはいつ・どこなのかはハッキリとは覚えてない。おそらくはTVドラマや映画といったフィクションで、妊婦の出産シーン。「もっといきんで! そう! もっと息を吸って、大きく吐いて…………もう少し!」みたいな感じで助産師さんが妊婦さんに声をかける場面。そこに出てくる「いきむ」という言葉。しばらくそれは「力む」だと勘違いしてたけど、「り」じゃなくて「い」だと知って、いきむ、そんな言葉あるんだ……と思った。オマエそんなことも知らないで生きてきたのかよって笑われそうだけど、残念ながら大人になってから初めて知った言葉だった。
辞書にはこう書いてある。
「いきむ【息む】重いものでも持ちあげるときのように、息をつめて、下腹にぐっと力を入れる」(新国語辞典 第十版/三省堂より)
初めて「いきむ」を知った時は、てっきり出産時の動作というか、産道からスムーズに赤ちゃんが出てくることを促すための行為のみを指す言葉だと思ってたけど、そうではないらしい。息を止めて下っ腹に力を入れる行為自体を指す一般的な言葉だという認識を持ったのは、ちょうど自分に子供ができた頃だから10数年前のことだ。出産に立ち会って「いきむ」という行為を目の当たりにした時、その言葉の意味を正確に捉えておきたいと思ったのだ。
息を止め下っ腹にグッと力を入れる――日常的にその動作を最も伴うシチュエーションは、おそらくトイレだろう。しかし個人的に便通に関して言えば日頃から快便生活なので踏ん張ることも滅多になく、座って本を読んでるうちに気づけば終了、というのがデフォルトであり、力を入れてひり出すことはほとんどない。しかしつい最近のことだが、便器に座ってもお尻がウンともスンとも言わない状況が2日間ほど続いた。
腸の動きが悪いのか、便意はあってもそいつは微動だにしない。リリースされることを拒む頑固者が道を塞いでいるのか、20分ほど応答を待っていたが埒が明く気配は訪れなかった。もはや腹筋の力を使って押し出すしかないと思い、便座の上で姿勢を正し、息を止め、下っ腹に力を込めるという動作を何度か繰り返すことにした。力を入れすぎて足がガクガクし、息を止めてるせいで頭がクラクラする。早くこの地獄から抜け出したい一心で思わず声が出てしまうほどの苦行。そんな一進一退の攻防が続く中、リズミカルに力を入れると直腸に刺激を与えることがわかった。そのほうが呼吸も辛くないし、動作の巧緻性も高くなる。そんな悪戦苦闘の最中、ふと頭の中に「いきむ」という単語が浮かんできた。あ、もしかしてこれが「いきむ」ってヤツなのか?
で、そのことを後日カミさんに話したら「そんなのと一緒にするな。レベチだ」と一蹴されてしまったが、言葉のリアリティにちょっとでも触れたかった仕事熱心な夫のことをどうか許してほしいと思った。そして、ミュージシャンが作品を作り上げる過程を「産みの苦しみ」などと安易に表現してきた自分を恥じた。それが「いきむ」という言葉と同じように、リアリティを伴っていないことを知った今、改めて原稿を書くことって難しいよな……とぼやく編集者でした。
文=樋口靖幸