1997年に永積タカシ、池田貴史たちとSUPER BUTTER DOGとしてメジャーデビューした竹内朋康。2008年のバンド解散後も、その自由に躍動し艷やかに黒光りするプレイを武器にMummy-D(RHYMESTER)とのユニット、マボロシとして活動を展開。また椎名林檎、さかいゆう、そして堂本剛のソロプロジェクトである.ENDRECHERI.など、数多くのアーティストのサポートを務めてきた。50歳となった彼が、自身のルーツであるジェフ・ベック、そして今だからこそ創造し鳴らすことができるフュージョンと向き合ったインストゥルメンタルアルバム、『BEAT BANG』をリリースする。本作を出発点に竹内朋康というギタリストの実像に迫り、その美学を語ってもらった。
(これは『音楽と人』2024年5月号に掲載された記事です)
今回、こういうアルバムを作ったのは昨年ジェフ・ベックが亡くなったことや竹内さん自身が50歳という節目を迎えたことなど、いろいろあると思うんですけど。
「そうっすね。去年の1月にジェフ・ベックが亡くなられたじゃないですか。そのタイミングで大阪に向かう車の中で久しぶりにジェフ・ベックを聴いてみたんですよ。そしたら中学生の時に聴いていた感覚が蘇ってきて。俺は高校に入ってからブラックミュージックにすごく惹かれて。そうすると中学の時に聴いていた音楽を聴かなくなるんですよ。ジェフ・ベックもそうだったんです。でも、彼が亡くなった時に久しぶりに聴いてみたら、〈うわっ、実はこんなに真っ黒な音だったんだ〉とかそういう気づきがあって。中学の時の感覚が蘇ると同時に、全然違う音楽にも聴こえたんです」
中学生でジェフ・ベックが好きって渋いですよね?
「10個離れた兄がいたので、その影響でいろいろ聴いてたんですよね。あ、これ聴いてみたいなって思うアーティストがいても、兄がレコードを持ってて聴けるっていうことが多くて」
当時聴き込んでいた音楽も、ブラックミュージックを味わい尽くした今の耳で聴くとやっぱり違いましたか?
「なんか自分の中で盛り上がっちゃって。自分が聴いてきた音楽がこうやってリンクしていくんだなって。実は一番カッコいいフュージョン(註:ジャズ、ロックなどジャンルの違う音楽を融合させること)をやってたのは、ジェフ・ベックだったんじゃないかと思ったんですよね。フュージョンって日本だとちょっとトロピカルなイメージが先行しがちなんだけど、70年代前半に起こってたインストのジャズロックが本当のフュージョンの最先端だったんだなって。そこで自分の中でインストゥルメンタルへの興味がさらに増していって」
最初のギターヒーローがジェフ・ベックだったんですか?
「中学に入ってブラスバンド部の仲間とバンドを始めるんですけど、最初はボン・ジョヴィや(バンドとしての)ヨーロッパだったり、ハードロックをコピーしていて。一方で弾けないけど好きだったのは、フランク・ザッパとジェフ・ベック、のちにシンプリー・レッドに加入する鈴木賢司=Kenji Jammerに憧れてました。憧れてるけど、弾けないみたいな(笑)」
ギター少年として憧憬を抱きつつもスキル的に手の届かなかったヒーローたちに、今だからこそ向き合えるというか。
「そうっすね。この歳になって思うのは、もっと年配の人に聴いてもらいたいという気持ちが今は強いんですよね。10代の時に自分が聴いていた音楽ってずっとこんなに好きなんだなって。過去は未来じゃないですけど、そういう感覚が強いというか」
それは剛さんもよく言ってますよね。
「うん。僕が好きな70年代初期のサウンドってすごいフューチャーだなって思うんですよ。そういう音楽が好きな人はどうしても年配の人が多いし、その人たちにもっとアピールしたくなってる自分がいて。今興味あるのは、無理して若い人たちの中で流行ってることにアプローチするんじゃなくて、もっと自分を解放するアプローチなんですよね」
その感覚は10年前にはなかった?
「それで言えば、10年前、40代になってからだんだんそうなっていった感じですね。それはたぶんメジャーを土台にした活動じゃなくなったのが大きいですね。元住吉POWERS2というハコで〈Magic Number〉という自分が主催するイベントを始めて。それくらいから大きな会場で演奏するよりも、小さい会場でいかにいいライヴをするのかが大事になっていったんですよ。そのイベントを通してシーンじゃなくてカルチャーが生まれるといいなって。元住吉POWERS2がすごく好きで。ちょっと郊外からも離れた場所にあって、別にいい機材が揃ってるわけじゃないんです。でも、そこでいかにいい音を鳴らすかということが10年くらい前から楽しくなってきたし、よりそういう思いが強くなってる」
音楽人生のターニングポイントだったと。
「もっと遡ると、29歳から30歳をまたぐタイミングで2ヵ月間、アメリカを一人旅したんです。その時一番衝撃的だったのはニューオーリンズで、向こうを拠点に活動しているギタリストの山岸潤史さんと、ミーターズのベーシストのジョージ・ポーターJr.、白人のドラマーのトリオが、確かオールドポイントバーという現地のライヴバーで毎週水曜日にライヴをやってると。行ってみたら、お客さんは5人くらしかいないんだけど、えらいカッコいいことをやってるんですよ」
飛び入りで参加できたりするんですか?
「そうなんです。それがとにかく衝撃的で。あと、シカゴではブルーズのオープンジャムセッションに参加できました。楽器を持ってきた人はパートと名前を書いて、司会者が勝手に組み合わせていくんですよ。これってすごいカルチャーだなと思ったし、言葉が通じなくてもすごく楽しかったんですよね。メジャーのフィールドでやっていると、なかなかそういうことはできないので。ああいうカルチャーを体験してる、してないでは全然違うと思うんです。自分の人生にとってはこういうカルチャーが絶対に必要だなと思いましたね」
そして、お客さんとダイレクトなコミュニケーションが取れるような場所を求め始めたという。
「それで始めたのが〈Magic Number〉というイベントで。メジャーでやっていると、1つのバンドやプロジェクトが終わると、ドーン!と落ちちゃうんですよ。経済的にもそうだし、気持ち的にも。そこから自分を立て直す時に思いついたのが〈Magic Number〉だった。メジャーでやってると、そんなに何個もバンドを組めないじゃないですか。でも自分を40歳から立て直していったら、今はもう数えきれないくらいバンドをやっていて。1つのバンドだけやってると、何か揉めたりした時に辛いじゃないですか。でも、無数にバンドを組んでると1つのバンドに何かあってもどうってことないんですよね(笑)。だから心がすごい豊かなんですよ。自分が一緒にやりたい仲間がいっぱいいればいるほど良くて」
開催するたびに仲間も増えていくだろうし。
「そうそう! 〈Magic Number〉ではいつも10人以上のミュージシャンが集まって、いろんなゲストが飛び入りで参加してます」
前に剛さんが「竹内くんは年間200本くらいライヴをやってる」って言ってたのを思い出しました。
「コロナ前はそれくらいやってましたね。10組くらいバンドがあるので(笑)。今、テクノもやってますからね。SUPER BUTTER DOGのベースだったTOMOHIKOと2人でTOMO TOMO CLUBというテクノユニットをやってるんですよ。2人ともギターもベースも弾かずに。ベルリンとかテクノの本場で活動したら儲かるかもしれないなと思ってるんですけど(笑)。そうやって続ければ続けるほど面白いことがどんどん起こるんですよ。だからやめられないっすよね」
それと同時にサポートメンバーとしての仕事もあるし。
「俺は実際そんなにサポート仕事の声はかかんないですよ」
でも、日本のブラックミュージックを支えてるギタリストというイメージは多くの人が共有してるところじゃないですか。
「そう言ってもらえると光栄ですけどね。でも、サポートは言われるほどやってなくて。今までやってきた人たちの名前を挙げると目立ってる感じになりますけど、俺みたいなギタリストは使いづらいと思いますよ。ギターソロなんか渡したら弾き倒すから(笑)。サポートのオファーをする会社からすれば、看板が目立たなきゃいけないのに」
でも、それと真逆の発想の現場が.ENDRECHERI.なんですよね。剛さんは「とにかく個を出しまくって弾きまくって、目立ってほしい」と言うわけですよね。
「はい。ありがたいことに(笑)」