ナンバーワンヒットを獲得した後、その先の価値観を指し示す人が、僕たちの周りには誰もいなかったんですよね
しかしその後、音楽ファンの間で人気は定着し、ホールでのコンサートもソールドアウトが続く。さらに、L⇔Rはポニーキャニオンに移籍。嶺川貴子は脱退し、3人体制となる。このタイミングの、大人たちが見えないところでいろいろ駆け引きしている様子は、取材していてもなんとなく感じられた。キャニオンに移籍というニュースは、メンバーもちゃんと結果を出したいんだな、と思っていた。
「あくまで僕の視点からですけど、あれは、僕らの意思がどうこうではなく、ビジネスとしての大きな動きに飲み込まれた感じでした。最初、マネージャーからここに移籍が決まった、って聞かされたのは、キャニオンじゃなかったし。貴子の件も含め、プロデュースやマネジメントの行政が絡んで、二転三転してましたね。条件次第では、あのまま4人だったかもしれないし。ただ、僕たちのアイデンティティである音楽の部分だけは譲らない、と強く主張しました。それだけは守らなきゃと思って。でもその他は、あまりにも大きな力で動いてるから、当時25歳くらいの僕たちには、何がなんだかわからないのが正直なところで。でも、キャニオンのおかげでいいタイアップがつくようになって、ナンバーワン・ヒットが生まれたし、今でもそれでL⇔Rというバンド名を憶えられているんだから、その選択は間違ってなかったと思います。ただ、兄貴も僕も、メジャーの全国流通でデビューして、アルバムを作れた時点で、ひとつのゴールを迎えてた、そんな気がしますね。ほら見たか!みたいな(笑)。マニアックだとか売れないとか、そういうこと言ってた世間に復讐した、そんな感覚でした」
1995年。「KNOCKIN' ON YOUR DOOR」がチャート1位を獲得し、翌年には日本武道館公演を成功させ、L⇔Rは日本を代表するロックバンドの地位に上り詰めた。5年前は、ポールのライヴを思い出に田舎に帰ろう、と話していたメンバーが、自分たちの音楽を世間に認めさせた、鮮やかな成功&復讐劇。きっと彼らは、日本の音楽の中でもエバーグリーンな存在として、長く活動を続けていくのだろう、そう思っていた。しかし翌年、リリースされると謳われていたアルバムが延期に延期を重ね、最終的に97年4月にリリースされた『Doubt』はすべてがおかしかった。これまでLとRの組み合わせで統一されていたアルバムタイトルの法則は完全無視され、ジャケットは健一がファックス用紙の裏に描いた謎のイラスト。楽曲のタイプは幅広く、これまで以上にバンドっぽさが強く出た。そしてアルバムに関するインタビューは基本受けず、一部の取材を秀樹と木下が受けるという変則的なプロモーションで、健一が表に出てくることはなかった。そしてこれが、L⇔Rのオリジナル・アルバムとしてはラストになってしまった。全国ツアーを終えたあと、活動休止を発表。2年前にチャート一位を獲得したバンドに待つ未来がこれだとは、誰も予想していなかった結末だった。
「新作をレコーディングすることになって、何曲かデモも準備されてたんですよ……いや、何曲か録ったあとだったかな。兄貴が途中で『もう無理だ……帰る』って言い出して、スタジオから逃げ出しちゃったんですよ。もう半ば進んじゃってるし、リリースも決まってるんだけど、顔見たらわかるんですよ。あ、これはマズい、ダメだ。完全に落ちてる、って。だから大二さんのところに行って、ほんとに申し訳ないんですが、1回レコーディング中断させてください、ってお願いして。兄貴には、やる気になったら戻って来ればいいから、ちょっと休んでなよ、と伝えて。それで少し延期したんだけど、もうさすがにこれ以上ズラせない、って話になって。最終的に、木下と僕が中心になってレコーディングを進めたんです。『Doubt』は賛否両論あるけど、結果的に、とてもバンドらしいアルバムになったと思うんですよ。木下のソングライティングやプレイアビリティのセンスが全面に出た曲も多いし、サウンドプロデュースは僕がまとめた曲もかなりある。そういう意味では、3人のバランスが拮抗した、バンドらしいアルバムになったんです」
「でも、そのことが休止に繋がった気もするんですよね。これは僕の私見ですけど……兄貴は、自分がドロップアウトして、一部関わらなかったこのアルバムが、どうにか進行して形になったこと、そしてそれがある一定の評価を得て、完成度が高いという事実。これを目の前にした時に、整合性が取れなくなったと思うんです。本人に聞いてみないことにはわからないですけど、自分が関わらなくてもアルバムが完成したという事実に、L⇔Rという存在に対する向き合い方がわからなくなったんじゃないかと思ってます。でもあの時は、レコード会社のスケジュールやリリースの展開も含めて、あれ以上延ばせなかった……というか、誰もケツが拭けなかったんですよ」
これは勝手な推測だが、思いもよらない状況を前に、レコーディングはお蔵入りにして後日やり直すとか、健一の完全な回復を待ってから話し合うとか、メンバーの状況を見た長期的な視野による判断を、事務所もメーカーもできなかったのだろう。それに当時はまだ、一部を除いて、メーカーのディレクターがすべてを取り仕切ることが多かった。その立場からすれば、なんとかしてアルバムを形にし、発売日に間に合わせること、が何よりも正義だった。
「それにあの頃、この先どうやっていけばいいのか、10年後にどうなっていられるのか、そうやって未来を指し示す人がいなかったんですよ。今わかることですけど、マネージメントやプロデュースの力は、当時の僕たちにもっと必要だった気がします。もちろん大二さんがいなかったらL⇔Rはなかったし、あそこまでのものは作れてなかったですけど、いろんな選択肢がある中で、その先にどんな道筋をつけていくのか、誰もそういうことができなかった。当時の僕らは、音楽的にいいものを作ろうという純粋さだけでアルバム作って、実際いいものを作ったと思うけど、その先に見えるゴールが、言い方は悪いですけど〈売れること〉でしかなかった気がするんです。兄貴じゃないけどそれは疲れますよ。売れることをゴールにしていくと、その先は、金持ちになるしかないじゃないですか。大二さんは四人囃子という伝説のバンドにいて、世界的に知られてて。でも『伝説って言われたって、誰も知らなくちゃ意味ねえぞ。お前らは絶対売れなきゃダメだからな!』ってつねづね言ってたんです。それで僕らをメインストリームに乗せてくれたし、その結果、ナンバーワン・ヒットも獲得した。これは本当にすごいことだと思います。でもその先の価値観を指し示す経験値を持った人が、僕たちの周りには誰もいなかったんですよね」
そしてL⇔Rは長い活動休止期間に入った。メンバーそれぞれがソロ・アルバムをリリースし、それぞれの場所を音楽シーンに築いていく。健一はソロアーティスト、秀樹はプロデュース業、木下はサポート・ミュージシャンとして。その後、健一と木下がバンドを結成。そして健一のライヴツアーに秀樹が参加し、2013年には健一のソロ・アルバムに秀樹、木下、嶺川が参加するなど、関係が疎遠になることは最後までなかった。しかし活動休止から20年の間、L⇔Rが再結成されることは最後までなかった。これは本当に不思議だった。
「何度も話はしたんです。というのは、俺はすごい言われるわけですよ。誰に会っても『L⇔Rやらないの?』『もうやったほうがいいよ』って。何なら俺のせいだと思われてたり(笑)。ほんとに言われ続けるから、いい加減嫌になって、兄貴に『どうする? 辞めるなら辞めるで解散でもいいじゃん。やりたくないんだったら、それはもう言ったほうがいいんじゃない? そのへんどう考えてるの?』って問い詰めても『うーん……でも今じゃないな』って答えしか返ってこなかったんですね。もしかしたら、L⇔Rという名義でやるのがちょっと怖かったのかもしれないです。昔より良くないものは見せたくない、見たくない、そんな気持ちが強い人だったから。ただ、本当に最後の最後なんですけど……兄貴は脳腫瘍の前にも1回、大きな病を患ってたんですよ。その見舞いとか、あと兄弟だから、この歳になると実家でいろいろあるじゃないですか。だから音楽とはまったく関係ないことを、顔つき合わせて話し合わなきゃいけないタイミングがあったんですよ。そしたらやっぱりその話になって(笑)。『L⇔Rそろそろどうなの?もういいんじゃない?』って、もう何度も言ってるから、半ばいつもと同じような答えが返ってくるだろうなと思いつつ、口にしたんですよ。そしたら『そうだな。秀樹ともきーちゃんとも一緒にやりたいから、ちょっと前向きに考えるよ』って言い出して。俺、びっくりしちゃって。『じゃあ1曲でも2曲でもかまわないから、何か一緒に曲作り始めようか?』って、めちゃくちゃ前のめりに話しちゃって(笑)。だから25周年あたりで可能性はなくはなかったんです。でもその直後に脳腫瘍が発覚して」
神様は残酷だ。ようやく歯車が動き出そうとしていたのに、それを止めてしまう。しかし秀樹は、メンバーであると同時に弟でもある。この世界に引き込んだ張本人でもある健一がいなくなって5年。どんな気持ちなのだろう。
「正直、今でも信じられないですよ。もう時間経ってますけど……心にぽっかり穴が空いた感じってこういうことを言うのかなって。だから現実感があんまりないんですよね。この数年、ずっとそうなんですよ。子供が産まれたことも含めて、すべて夢みたいな感じ。この夢、いつ終わるのかなって。でもね……去年、友人のなるちゃん(成瀬英樹:シンガーソングライター/プロデューサー)に『L⇔R唄えるの、もう秀樹くんしかいないんだから、絶対唄いなよ』って言われたんですよ。でも、兄貴が唄ってた曲を俺が唄うの、当時のファンは嫌だろうな、俺がファンでもそう思うだろうな……とかいろいろ考えちゃって。ずっとモヤモヤしてたんです。でも、どんだけ時間が経っても……このぽっかり空いた穴が埋まらないんですよね。埋めようとすればするほどダメで。どうしても埋まらないから、もう埋めようとしないことにしたんです(笑)。だから今年の始め、なるちゃんとふたりで〈Walls & Bridges〉というライヴの企画を立ち上げて、その中で〈HIDEKI sings L⇔R〉というライヴをやったんですよ」
「タイトル通り、僕がL⇔Rを唄う、という企画なんですけど、YouTubeチャンネルも開設して。で、ライヴをやってみたら、お客さんもみんないい歳だから(笑)その人たちもそこそこ人生でいろんなことが起きてるわけですよ。そんな人たちを前にして、ミュージシャンらしく『みんなで一緒に乗り越えていこう!』なんてこと言って、背中を押してあげれたらいいんだけど、俺が無理だった(笑)。だって、黒沢健一はただのバンドメンバーじゃないんだよ。実の兄貴なんだよ。子供の頃からずっと一緒にいたんだよ。で、俺に音楽を教えてくれて、ここまで導いてくれた人でもある。その人のことを乗り越えていけるはずがないよ。でも僕を見たら、少なからずみんな兄貴のことを、L⇔Rのあの曲のことを思い出す。もうこれはしょうがないよ。そのことに異議申し立てのしようもない。これで音楽辞めますって言うなら別だけど、やってる以上はもう仕方がない。俺はこのモヤモヤした気持ちをさ、ライヴを観に来るお客さんと一緒に、一生、ずっとモヤモヤし続けるの(笑)。乗り越えろって言われたって無理なんだから、モヤモヤし続けながら唄う。そう決めたんです」
なんとも黒沢秀樹らしい決意表明だ。ちょっと後ろ向きで、斜に構えたようで、でもみんなのことを考えて、引きずりつつ、前を見てる。