『音楽と人』の編集部員がリレー形式で、自由に発信していくコーナー。エッセイ、コラム、オモシロ企画など、編集部スタッフが日々感じたもの、見たものなどを、それぞれの視点でお届けしていきます。今回はある物作りにチャレンジした編集者が、そこで得た気づきを綴ります。
『音楽と人』の次号予告ページをご存知だろうか。この編集部通信をわざわざ読んでくださっている方なら〈ああ、あの最後のページね〉と認識してもらえている前提で綴るが、そのページには編集部員によるちょっとした会話も掲載されている。
その会話というのは、読者プレゼントのお題について。お題に回答するのはプレゼント応募に必要な条件であり、例えばお題が〈あなたの好きな食べ物は?〉だったら、好きな食べ物とその理由もハガキやメールに書いていただく必要があるのだ。ちなみに、お題とそれに対する回答例は、編集部内の数人が毎月LINE上で話し合いつつ決めている。さまざまな事情があって、それを決めるタイミングは校了期間中の深夜などバタバタしたタイミングがほとんど。正直億劫に思う瞬間もあるが、〈この人は今これにハマっているのか〉〈そういうことに幸せを感じるのか〉など楽しい発見も多い時間である。
発売中の11月号のお題は何かというと、〈あなたがこの秋に極めたいこと〉。銭湯巡り、運動、読書などさまざまな回答が挙がる中、私は「カメラ」と回答した。趣味で写真を撮るのが好きなので、秋にしか撮れない景色をおさめておきたいなと思っていたのだ。で、それは最近実現することができた。とある山に行き、我ながらいい写真が撮れたのに、なぜか満たされない。というか、私が極めたいことって、カメラに限らず物作り全般だったんじゃない……? 〈あれ〉をきっかけに、創作意欲が完全に目を覚ましたんじゃない?と、気づかされたのだ。
〈あれ〉というのは、先月、撮影に必要なとある小道具を自分で作っていた時のこと。正直それを作っている数時間は仕事という感覚がなく、無我夢中という言葉がピッタリ当てはまるくらい没頭していた。毎週欠かさず見ているTV番組はそっちのけ、ロングスリーパーのくせに睡眠も後回し。自分の指先だけで何かを生み出していく感覚はひたすら楽しくて、学生時代の図工や美術を思い出すような懐かしさもあった。しかも、完成した小道具をいろんな人から「すごいね」「よく思いついたね」「器用だね」と褒めていただき(原稿ではこんなに褒められたことないのに)、〈私って生き方は不器用なくせに手先は器用だったんだな〉〈自分にキャッチコピーをつけるとしたら『手先は器用、心は不器用! 宇佐美です★』かな〉など、一生出番のないキャッチコピーを考えるほど調子に乗ってしまった。そうなれば止まらない。私の創作意欲は膨らむばかりだ。
たしかに思い返せば、手先に限って言えば器用なほうだった。例えば小学校低学年の頃、夏休みの自由研究にテディベアを一から制作したこともあった。これまた我ながらなかなかの完成度で、先生や友達にたくさん褒めてもらった記憶がある。しかし、当時何かにつけて私に絡んできていた某女子クラスメイトは、それが気に食わなかったのか、「この子は買ったものを作ったと言い張ってるんだよ!」と嘘を吹聴されたこともある。あの子、今頃どうしているのだろうか。まあ、そんなほろ苦い思い出はさておき、昔は漫画家になるため毎日ひたすら絵を描き続けていたりと、授業や課題とは別に、あくまで能動的に何かを作る時間を確保していた。というより、物作りをしたいという欲求に正直に向き合えていた。それがいつしか、〈芸術でご飯を食べていくのはきっと無理〉〈現実的に将来を見つめなきゃ〉と考えるようになり、やりたいことに背を向けるようになっていったのだと思う。
そしてたどり着いた今。雑誌作りというクリエイティヴなことを仕事にできているのは楽しいし、ありがたいことではある。でも私は普段から視野が狭くなりがちで、さらにコロナ禍で人と会わないようにしていたことも相まって、仕事に没頭しつつ、且つ自問自答ばかりの日々を送っていたら、苦しくなる瞬間も増えていったのが事実だ。仕事で何か悲しくなることや腹が立つことがあれば、仕事そのものに嫌気がさす。大好きな音楽に関わることができていて、しかも物作りができているのに。恵まれた環境に身を置けているくせに、ネガティヴな感情しか湧かない自分が嫌だ。そう思っていたタイミングでの創作意欲の目覚め、そして夏季休暇の到来。思いきって、仕事以外の場で物作りに挑戦することにしたのだ。絵画、小説、脚本、生花、ガラス細工……いろいろ考えた末に決めたのが陶芸だった。
まずは興味がある教室の体験レッスンに参加してみたが、これが想像以上に楽しかった! 理想の器を脳内に描きながら、そこに近づくため無心で土を形成していく。初めは小さな玉のようだった土のかたまりが、最終的には何倍もの大きさの器に生まれ変わった瞬間、何とも言えない愛おしさが込み上げてきた。まるで自分が産んだ赤子のよう……なんて、結婚すらしていない私は思う資格もないし、具体的な想像もつかない。しかし、それを連想してしまうくらいの感動を味わえたことは嬉しかった。それに、私が選んだ陶芸教室は浅草という立地も相まって、自分と同世代の人はほとんどいない。だからこそ、世代が違う人たちとの会話はとても新鮮だった。そりゃ仕事でいくらでも世代が違う人たちと交流できるが、何も気にせず、フラットな状態でただ楽しく会話ができる時間というのはとても貴重なのだ。
あと、陶芸のいいところは正解がないこと。芸術はどれもそうだと思うが、陶芸の場合、同じ模様を土に入れたとしても、作り手によって仕上がりが全く違うのだ。几帳面な人なら、人の手で仕上げたとは思えないような規則的で美しい仕上がり。片や、大雑把な人なら、不揃いだったり不恰好に見えてしまうものであっても、手作りならではの温かさに繋がる。余計な枠やものさしに囚われる必要はなく、土の上ではすべてが味になる。たった1回の体験教室で陶芸にしっかりと魅了された私は、これに味をしめて、興味のある物作りにこれからも挑戦していくことを決意した。何なら、老後はそれで食べていけるくらいになりたい。そんなに甘くはないだろうが。
編集部員として学ぶことは山ほどあるし、自分は未熟だと痛感することのほうが多い毎日だけど、仕事以外の余暇時間は息抜きに繋がるし、そこで得たものが仕事に生かされるんじゃないかとも思う。それに、一度抱いた夢は結局捨てきれなくて、いつかどこかでもう一度向き合わなければいけない気もするから。人それぞれだと思うが、自分は良くも悪くも嘘がつけない性格なので、完全にそのタイプだと思う。今の自分が「仕事を頑張りたいから」と芸術を極めることを後回しにしても、5年後とか10年後の自分も、結局は物作りへの憧れを捨てきれていないはず。今の自分ならそう断言できる。
自分の本心に気づくいいきっかけとなった次号予告ページに感謝しつつ、コロナ禍なので、まだまだ自由に何にでも取り組める状況ではないが、「明日やろうは馬鹿野郎」の精神で、やりたいことから逃げずに自分らしく生きていきたい。これ、私が高校生くらいの時にやっていたドラマに出てきた台詞で、別にこの台詞に感銘を受けたわけではないと思っていたが、最近だったり何かを諦めようとする自分が出現すると、反射的にこの台詞を思い出す。それによって重い腰を上げられることもあるのだから、結局は感銘を受けているということなのだろうか。とにもかくにも、いろんな意味で視野を広く持って、これからも雑誌作りに向き合っていきたい。と、秋晴れの空の下で意気込む今日この頃です。
文=宇佐美裕世