『音楽と人』の編集部員がリレー形式で、自由に発信していくコーナー。エッセイ、コラム、オモシロ企画など、編集部スタッフが日々感じたもの、見たものなどを、それぞれの視点でお届けしていきます。今回はある映画を通じ自身の体験を思い出した若手編集者が、そこで気づいたことを綴ります。
先日U-NEXTでいい映画がないかと探していたら、『僕と頭の中の落書きたち』をおすすめされた。良さそうだったので、観てみたところその予感は的中。話のあらすじをまとめると、主人公である高校生のアダムは、ある日学校の理科の授業中に幻覚の症状が現れたことで友人にケガを負わせてしまうのだが、それを機に統合失調症だと診断される。病気のせいで孤立してしまい転校を余儀なくされた彼は、新天地でマヤという聡明な少女と出会い、治療の効果もあったことで少しずつ安定したと思った矢先、薬による副作用や、家族など周りの人たちとの衝突といったさまざまな壁が立ちはだかる。彼が病気や自分自身、そして周りと向き合う姿はとても苦しい部分もあり、観ていて思わず嗚咽してしまったが(笑)とても良い映画に出会えた(主人公を演じた、チャーリー・プラマーは本当に素晴らしかった!)。
この映画を観て思い出したのは、自分が患った病気のことだ。それは特発性側弯症という、通常なら真っ直ぐに位置するはずの背骨が左右に弯曲してしまうもので、発覚したのは14年前ほど前。最初は経過観察していたものの、当時10代前半ということもあって成長期。身長が伸びるにつれて背骨の弯曲は進み、12歳の時に矯正手術を受けた。その内容は、曲がった背骨をできるだけ真っ直ぐになるよう動かし、最終的に理想の位置で骨をチタン製の棒で固定するというもの。半日にも及ぶ人生初の大手術。無事に成功したが、術後には肺気胸(註:肺に穴があいて空気が漏れ、しぼんでしまうこと)になったせいで、脇腹を切開しチューブを挿入のうえ治療した期間(この処置は、胸腔ドレナージと言うらしい)も加わり、結果的に2週間ほどベッドに縛り付けられた状態だった。その中で今なお忘れられないのは、お見舞いに来てくれた知人たちに対して母が「本当に可哀想で。代わってあげたい」と涙ながらに話していた姿だ。病気は辛く苦しいが、抱えている側だけでなく、そんな自分を取り巻く人々もいろんな気持ちになるのだろう。あれから12年経つけれど、あの時傍で看病してくれた家族や病院の人たちにあらためて感謝したい。
入院当時を思い返すと、例えば術後から間もない身動きをとれなかった時、床に物を落として困ったとしても〈こんなことでナースコールして助けてもらうのはどうなんだろう?〉と迷って何も言えなかったり、傷の消毒が痛くても歯を食いしばってしまうみたいなことがあった。家族には甘えられたけれど、病院の人たちにはなんだか申し訳なくて助けを求められない部分もあったのだが、それはきっと変に我慢強いところや、過剰に抑え込んでしまう自分の性質が影響しているのかなと思う。入院時に限らず、過去には周りが私に寄り添おうとしてくれたのに、それを素直に受け入れることができなかった経験もあって、そうなったのはおそらく〈わかってほしいけど、でもわかられてたまるか〉みたいなとても面倒くさい理由もひとつだろうなと分析しているけれど(笑)、もしそこで誰かに頼れたら気持ちが楽になったり、物事がいい方向に早く進んだんじゃないか、という気もするのだ。
じゃあ今はどうなのか。昔と変わらない部分もあるけれど、例えば誰かに意見を聞いてみることが少しうまくなった気がするし、何よりも人と関わるのが楽しくなった。そう思えるようになったのは、この仕事をとおして、いろんなミュージシャンに音楽や作品の話を聞く中で、相手から受け取った言葉の中に、なぜか自分と近い感覚を持っているなということや、もっと言えば自分自身にそのまま重なるなと感じた瞬間があり、私の内側と外の世界が繋がるのを実感した、というのがまずひとつ。加えて、自分がこういうものを作りたいとイメージして誰かに相談したところ、新しいアイディアを出してもらいひとりでは思いつかなかったものが形になり嬉しかった、というのもある。これはきっと同じ目的に向かって誰かと一緒に何かを作ることの醍醐味なのかもしれない。人と関わると傷ついたり、理不尽だなと思うことに遭遇してムッとしてしまうこともあるけれど(笑)、それよりもシンプルに楽しいし、嬉しいことや新しい気づきを得るほうが最近は多いのだ。
冒頭で触れた映画の中で主人公のアダムは病気に苦しみ、過去の私と同じように周りの声に耳を傾けることができず、自分の殻に閉じこもっていってしまう。だが、やがて病気を受け入れ、幻覚や幻聴とうまく付き合っていこうと決心し、そのうえで誰かの助けが必要なんだと気づくのだ。そうして素直になった彼は一歩前に踏み出すことができ、少しずつ明るさを取り戻していくが、病気でなくてもいつだって最後はひとりじゃ何もできない。誰かのおかげで生きていて、生かされている。壮大な話になってしまったけれど(笑)、それを頭の中に置いたうえで過ごしていたいし、だからこそたとえちょっと怖くても、自分が心を開いて伝えてみたい。今はそれを受け止めて何かを返してくれたり、力になってくれる人たちがいるなとも思えるのだ。そういう環境にいれることが嬉しいし、ありがたい。だから、もう変に〈自分で頑張らなきゃ〉〈こうしなきゃ、うまくやらなきゃ〉とまるで呪いをかけるように言い聞かせて息苦しくなる必要なんてなく、私は私のままで、できること、とても些細なことからでいいからそれを頑張ればいいのだ。その頑張りたいことは――やっぱりいろんな人と話がしたいし、聞かせてほしい。そしてそこで受け取った言葉が、どこかの誰かに届けばなとわずかに願いながら、自分をより良くしたいし、できることを形にして次に進みたい。
文=青木里紗