『音楽と人』の編集部員がリレー形式で、自由に言葉を発信していくコーナー。エッセイ、コラム、オモシロ企画など、編集部スタッフが日々感じたもの、見たものなどを、それぞれの視点で読者の皆さまへお届けしていきます。今回は、編集部の最年少編集者が、自身の大切な存在と場所について綴ります。
昨年11月、ピアノ連弾ヴォーカルユニット・Kitri(キトリ)のライヴを観に、キリスト品川教会グローリアチャペルに足を運んだ。会場の中に入ると、ステージの左右には立派なパイプオルガンが設置され、天井は高く、崇高な雰囲気が漂っている。背筋がピンと伸びてしまうと同時に、ふと思い出した。私にとって教会は、もっとも身近に存在する〈異世界〉だったということを。
私が教会に初めて行ったのは、高校2年の冬。当時、学校も休みがちで、何もしたくないと塞ぎ込んでいた。そんな時、周囲から勉強でも部活でもなく、自分が本当にやりたいことをやってみたら?と、気分転換することを勧められ、真っ先に〈歌が唄いたい。ゴスペルが唄ってみたい!〉と思った。いろんな音楽がある中で、なぜゴスペルを選んだのかは今でも不思議で仕方がないけれど、ある日突然〈ゴスペル〉という4文字が頭の中に降ってきたことを覚えている。そうして、地元の小さな教会を拠点とする、ゴスペルクワイア(註:ゴスペルを唄うチーム)を見つけ出したのだった。
初めて教会に行き、ワークショップ(註:ゴスペルの練習会)に参加した日から、そのクワイアの人たちや、教会の方々は私を歓迎してくれた。そこでは、講師を招き、発表会などで披露する楽曲を唄う。ソプラノ、アルト、テナーに分かれて、それぞれの声が重なると、自分の身体が大きくて温かなベールにまるっと包み込まれた心地になり、自分もメロディにあわせて声を発したあとは、晴れやかな気持ちになった。それ以来、クワイアの行事や練習に参加することが増え、地元のショッピングモールでクリスマスソングを唄ったり、老人ホームにお邪魔して唄うこともあれば、東京の教会で開催されたワークショップに参加したり、全国のゴスペルクワイアが集結するコンサートに出演するなどさまざまな場所で唄った。
当たり前のことだけれど、ゴスペルはキリスト教と密接な関わりがある。だからゴスペルを唄う場所で、牧師さんから聖書の言葉を聞く機会が増えたり、自然と自分の周りにクリスチャンの方がたくさんいる、というように、それまで私が身を置いていた場所とはまったく違う世界が広がっていた。私は当時も、現在も、クリスチャンではない。ミッション系の学校に通ったこともないので、教会やキリスト教というものはなじみがなかった。本当にふとしたきっかけで、未知の世界の扉を知らぬ間に開いていたのだ。
クリスチャンではない私がゴスペルを唄うのは矛盾しているかもしれない。さまざまなクワイアが集まる発表会に参加した時、クリスチャンの人たちが唄う姿を目の当たりにして、衝撃を受けた。なぜなら歌を唄うというより、魂が身体からあふれてくるというか、歌と身体が一体になっているように見えたから。それは信じるものに対しての、強い願いや思いからくるものだと思うのだけれど、何も信仰していない私が唄うそれとは明らかに違うのは確かだった。そんな私でも、ゴスペルで唄った楽曲の詞にグッときたことが何度もある。苦しいことがあっても、必ず明るい場所にたどり着けるんだと思わせてくれるものが多く、塞ぎ込んでいた当時の自分に刺さるものだったのだ。
そして、唄うことはもちろん、私はそのクワイアのことが大好きになった。ゴスペルを唄いに教会に行くと幅広い世代の人たちと接することができ、高校生の自分には新鮮な環境だったのだろう。そこで学校の先生や友達には話せなかった、当時の自分の思いや考え、将来のことなどを話したり、時にはアドバイスをもらった。
東京に出てきてからも、帰省した際には、教会にできるだけ顔を出すようにしている。今年の年始も挨拶に行き、クワイアの代表であり、教会の牧師でもあるご夫婦、そしてその子供たちと一緒にお茶をして、近況を語り合った。この日は礼拝もなければ、ゴスペルの練習もなかったのだけれど「せっかく来てくれたからゴスペル唄おう」と言ってもらい、夫妻が演奏するピアノとギターにあわせて、3人で「Oh Happy Day」を唄った。私がゴスペルを唄うのは、実は2年ぶり。就職してから、礼拝に伺うことはできても、ゴスペルの練習や発表会とはなかなか予定があわず機会を逃していた。久々に唄ったので最初はぎこちなかったけれど、身体はメロディと歌詞を覚えていたようで、次第に勝手に口が動いていた。これこそ、本能と呼べるんじゃないだろうか。そして心がパッと明るくなった。
教会、ゴスペル――音楽に導かれた先で、自分の世界を広げてくれたものは、今、「ただいま」と言える大切な場所、存在のひとつになった。それがあるから、私はなんとか東京でひとりでやっていけていると言っても過言ではない。頭を使いすぎて心が渇いてしまうこともあるけれど、そんな時、あの場所とあのメロディを思い出せばいいんだ。それだけで潤ってくるから。そして、これからもこんなふうに大切だと思えるものや人に出会えたら、とても素敵だ。そんな新たな出会いを願い、期待して、2020年も頑張っていこうと思う。
文=青木里紗