音楽と人編集部の視点でARABAKI ROCK FEST.19をお届けしていく、この音楽と人編集部ARABAKI通信。本日1回目の更新は、東北のフェスならではの景色から感じたことについて。
フェスとは開催地ごとに大きく色が異なるものだ。
その土地の名産品やカルチャーを反映させた出店の数々、通りすがりの参加者やスタッフの会話から聞こえてくる訛りや方言――それらの「地域性」を感じる要素に触れるたび、非日常感を感じられて思わず心が躍ってしまう。
最も地域性を感じる要素といえば、ライヴを観る際の観客のテンションだ。アラバキの場合、東北の参加者が多いからだろうか。客席前方ではライヴハウス級の盛り上がりを見せているが、全体的に観客の反応が奥ゆかしく感じたのが正直なところだ。
個人的な話で恐縮だが、私は新潟出身である。新潟と東北は距離など物理的な部分だけでなく、感覚的にも通ずる部分が多くあるように思う。だからこそ、アラバキ初参加の自分にとって、この控え目な盛り上がり方は妙に安心できる。ただひとつ言いたいのは、決して盛り下がっているというわけではない。好きなアーティストの好きな曲を一音一音噛み締めるように、一瞬一瞬を目に焼き付けるように堪能するその姿が印象的なのだ。
その「堪能型」としての楽しみ方が顕著だったのは、MICHINOKUステージでのあいみょんの出番の時だったように思う。後方のテントエリアまでも立ち見の観客がぎっしりと埋め尽くす中、満を持しての登場となったあいみょん。初っ端から「満月の夜なら」「生きていたんだよな」などのヒットナンバーをぶつけ、穏やかで艶やかなその歌声が、夕刻の大地を鮮やかに彩る。
私は後方から桜の花越しにステージを観ていた。その途中、何だか無性に今この瞬間に感謝をしたくなった。素晴らしいパフォーマンスを魅せてくれているあいみょんはもちろんだが、何より、この広大な東北の自然と、そして東北を愛する地元スタッフの協力がなければ、そもそもこの時間は存在していない。なぜかあいみょんの歌を聴いている途中、堪能するように酔いしれる観客の中で、この2日間で出会った飲食店のスタッフや、運営に携わるスタッフの人々の顔が次から次へと頭の中に浮かんできたのだ。個人的に初参加だったアラバキ。そんな自分でさえも違和感なく溶け込み、安心感と感動を与えてくれる環境を作り上げてくれた全ての人たちに、この場を借りて感謝の気持ちを伝えたい。
アラバキロックフェス――それは、どんな人も大きくて温かな愛で包み込んでくれる優しさが確かに存在している、素晴らしいフェスだ。どうかこの奇跡のような時間が、これからも続いていきますように。
文=宇佐美裕世